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バネ鋼

酒のつまみ

2019年12月1日

  ネパールでは家の中でも外でもよく酒を飲みます。隣国の同じヒンドゥー教国のインドでは飲酒は不謹慎なこととみなされている(だが禁止ではない)らしく売っている店を探すことも難しかったりするのとは対照的です。

  酒を飲むという事はつまみが欠かせません、これは鉄則です。ネパール人はお酒が好きなのでネパールはつまみも豊富です。いい国ですね。店長もお酒が好きなのでネパールへ出張の度に日本から大量のおつまみを持って行きます。もちろん自分用ではなくお土産としてです。
  日本から持って行ったつまみで何がネパール人に人気があるかと言いますと、意外なことにそれはシーフードです。

  なぜシーフードが意外なのかといいますと、ネパールはヒマラヤの小国なので海なんてどこにも無いからです。一番近い海岸線は国境を越えて優に400キロは先ありますので、生の海産物など目にしたこともない人が大半でしょう。
  また店長が知る限りネパールに水族館はなく、外国のアニメに登場するタコやイカやウニは子供にとって正体不明の怪生物です。
  そういう訳でほぼ全員がまともなシーフードなど食べたことがないのです。にもかかわらずシーフードを食べさせてみると皆美味しいというのです。これはつまり食習慣や経験にかかわらず人類にとって普遍的にシーフードが酒のつまみに適していることを意味しているのではないでしょうか。
  では日本のつまみを人気順に挙げていきましょう。

1位 裂きイカ・・・これが嫌いなネパール人にはまだ会ったことがありません。また、これの正体がイカだと見破れるネパール人にも会ったことがありません、当然ですね。
  一度裂いていないイカの姿そのもののロールイカを持っていったらあまりの不気味さ(ネパール人にとって)に非常に嫌な顔をされたので、もうしません。そりゃ生まれて初めて見たら気持ち悪いですよね。まあそれでも食べていましたのでよほど好きなのでしょう。

つまみ

2位 サンマのかば焼き・・・そう、あのぱっかんと開ける缶詰です。タレまですべて舐め尽くすくらい好まれます。こっちの方は正体を明かしても嫌な顔はされませんでした。
  砂漠を持たない日本に住む我々が地平線まで続く広大な砂丘にロマンを感じるように、ネパール人はどこまでも続く大海原に対して漠然とした憧れがあるらしく、サンマが太平洋を回遊する魚で日本の秋の味覚だと説明したら感慨深そうでした。

つまみ

3位 焼きタラ・・・これが一般名称かどうか分かりませんが、あの白くて紙みたいな、何と言うか魚の練り物を薄く延ばして焼いてシート状にしてから細切りにしたようなアレです。細切りにしていないものはパッと見はネパールのスナックであるパパドに似ていますので、騙して食わせたらそれ以来皆さんに気に入ってもらえました。

つまみ

  その他、いか天やスルメそうめんなどのイカ系のおつまみもなかなかの人気です。ちなみにナッツ系はむしろネパールの方が日本より充実しているので受けません。わずかにジャイアントコーンは大きさが珍しかったためかちょっと受けました。
  シーフードと言えば最近はカトマンズで寿司を食べるネパール人も増えてきつつあるようですが、一般的には生魚は口に入れることすら拒絶されることが多いので、やはり乾きモノがよろしいようです。

つまみ

  最後にシーフードなのかどうか微妙なものを一つ、タコ焼きです。タコ焼きもここ数年で見かけるようになりました。下の写真は店長が拠点を置く古都バクタプルのショッピングモールの前にオープンした屋台です。どこまで日本の味に迫っているのかを試すべく買ってみました。

つまみ

  驚くべき事に味は日本のタコ焼きそのもので、マヨとソースがかかってタコもちゃんと入っていました。凄い再現度です。
  焼いてる本人に聞いてみたところ「ウチの姉ちゃんが日本でタコ焼きの勉強して帰ってきて、それで兄妹全員でやってるんだ」とのこと。6個入りで200ルピー(約200円)はちょっと高いと思いますが、まあ日本で食べるケバブなんかも現地に比べれば結構なお値段ですのでそんなものなのでしょう。
  これをお読みの皆さん、店長はナイフで手一杯なのでやりませんが、今ならシーフードの処女地ネパールにシーフードチェーンを立ち上げてシーフード王になることも夢ではないと思われます。まずはおつまみの販売から挑戦してみてはいかがでしょうか? まあ物価差を考えると儲けは期待できませんが.....。

救国の王妃ラクシュミ

2019年11月1日

  ネパールの首都カトマンズの西側にある軍事博物館には乱世を勝ち抜き今日のネパール国を築いていった軍人の肖像画や写真が略歴とともに展示されているコーナーがあります。そこには将軍や王族といったいかつい男性達に交じってたった1枚ひときわ異彩を放つ女性の肖像画があります。ラジェンドラ・ラクシュミ・シン・シャハ、すなわち第二代ネパール国王の妃です。

  現代ならいざ知らず時代は18世紀です。男尊女卑が当然の価値観であったはずのこの時代において、女性が、しかも王妃が軍人たちの列に加えられているのは極めて異例なことなのです。

ラクシュミ
                          歴代の軍人コーナー

ラクシュミ
                ラクシュミ王妃

  この異例中の異例が必然として成立した理由はその時代背景にあります。ラクシュミが第二代ネパール国王に嫁いだ頃は日本で言えば戦国時代の真っ最中であり、ネパール国そのものがまだ建国から数年しかたっていない弱小国家だったのです。
  状況は織田信長がまだ子供だった頃の尾張の一豪族に過ぎなかった織田家に類似しています。しかし織田家と決定的に違うのはラクシュミの夫である第二代ネパール国王が僅か26歳で死亡してしまった事です。織田家で言えば桶狭間の戦いの直前(信長26歳)に信長が死亡したも同然の大ピンチです。信長が桶狭間以前に死亡していたなら織田家が天下を手中に収めかけることは恐らくなかったでしょう。唯一家督を継げたかもしれない弟はとっくに信長自身に殺されてしまっていたからです。

  国王一族すなわちシャハ家では幸運にも国王死亡時点で家督を継げる男子即ちラクシュミの一人息子がいましたが、この時点でまだ2歳でしたので形だけ即位はしたものの何の役にも立ちません。何とかしてこの大ピンチを切り抜けなくてはネパール国に明日はないのです、どうするネパール!?
  王妃であるラクシュミが出した答えは、自分が摂政となって息子の成長を待ちつつ同時にネパール軍をも率いるという当時の社会通念上信じられないようなものでした。国の存亡にかかわるレベルの非常事態にのみ許される掟破りのミラクルな解答です。そしてなんとその解答が正解だったのです。

  結婚前の彼女の経歴ははっきりしません。というのもラクシュミはネパール出身でもその前身のグルカ出身でもなく、ネパールと敵対関係にあり王国統一の覇を競っていたパルパ国の姫だったからです。つまり彼女の結婚は敵同士であるパルパとネパールの和平を担保するための政略結婚だったわけです。当時としては別に不思議な事ではありません。
  一方で不思議な事なのはどうやら彼女が軍事訓練を受けていた形跡がある点です。この時代の女性が戦闘訓練を受けるのは非常識なことなのです。ところが記録によれば彼女は馬術に優れ、剣を使い、戦術戦略を知っていたとのことです。そうして夫の死亡直後から、軍と国民を束ねるために剣を片手に馬を駆ってネパール辺境の州を走り回っていたといいます。女性でしかもお姫様であった彼女に何故そんなことができたのでしょう?
  これは店長の勝手な想像ですが、地方領主であるパルパ王の娘であったラクシュミは、生き馬の目を抜く戦国を生き延びるためにやむなく父から軍事訓練を施されたのではないかと思っています。

  事態が急変するのはラクシュミがネパール軍の指揮を執るようになってから4年後です。急速に勢力を伸ばしつつある新興国ネパールに危機感を持った24諸国(中西部の中小国家群)が連合軍を結成し、ネパールを急襲したのです。戦国時代の日本でも織田信長の妹(お市の方)などは織田家と対立関係にあった浅井家に嫁がされ、その3年後に浅井家は信長に滅ばされていますので、政略結婚した嫁ぎ先に故郷の軍が攻め込んでくる事は当時のネパールでも珍しくはなかったのでしょう。

  前述のお市の方は浅井家が織田軍に攻め滅ぼされる際に辛くも脱出に成功しています。同様に24諸国連合軍が攻めてきた時はラクシュミはネパールからの脱出を図るのが普通なのですが、普通ではなかった彼女は信じがたい行動に出ました。
  そうです、彼女は脱出ではなく連合軍との戦いを選んだのです。24諸国の中には自分の出身地であるパルパも入っていたにもかかわらず、です。この決断には、もし自分がネパールを脱出したら既に戴冠式を済ませてしまった第三代ネパール国王である息子の命が危ない、という事情が後押ししたのではないかと店長は推測しています。
  つまりこういう事です。もし夫が生きていたら、死んでいてもせめて戴冠式前なら、子供を連れて脱出するのが最善です。父であるパルパ王なら孫を受け入れてくれるかもしれないからです。しかし既に国王である息子を国外に連れ出すのは不可能です。もうこの時点で息子の命はネパールが24諸国連合軍に勝利できるかどうかにかかっていたのです。
  そして圧倒的に劣勢な小国ネパールに勝利の可能性があるとすれば、それはネパール軍を知り尽くした自分が指揮を執ることが絶対条件です。母親ならこれは負けられませんよね?

  パルパ王にとっては誤算だったかもしれませんが、結婚前の軍事訓練と軍のトップとしての4年間の経験がラクシュミを鍛え上げ、彼女をただの “和平のために嫁がされた姫” から ”優秀なネパール軍司令官” へと変貌させていました。なんとラクシュミは圧倒的な劣勢をひっくり返してこの戦いで24諸国連合軍を撃破し、あろうことかそのうち3か国をネパールに併合することに成功したのです(意図的かどうか分かりませんがパルパはその3か国には入っていません)。
  これは凄い事です、快挙です、戦国時代の日本でも政略結婚させられた嫁が亡き夫の軍を率いて故郷の軍を撃退した例などありはしません。もし彼女がいなければ今日ネパールがある場所には全く別の国があったかもしれないのです。まさに救国の王妃なのです。
  下の写真は国立博物館に展示されているネパールの領土の変遷です。この年しっかり3か国(赤色部分)が併合されています。

ラクシュミ
                        ネパールの国土の変遷

  この戦いの4年後にラクシュミが没した時には息子は10歳になっており、母が命懸けで守ったこの子が成長して後に母親の故郷であるパルパをも攻略し、ついには数十に別れて争っていた周辺諸国を次々と攻略してネパール統一を成し遂げるのはさらに19年先の話になります。
  パルパのおじいちゃんも自分の孫が自分を打ち破ってネパール統一を果たすなんて、きっとあの世で苦笑いしてますね。

信用できない道案内看板

2019年10月1日

  今からちょっと前の2011年はネパール・ツーリズム・イアーと銘打って政府主導でネパール国内の旅行施設の充実化が図られました。観光客への宣伝活動だけではなくホテルや道路の整備もなされ、ヒマラヤの山奥にすら道案内の看板が立ちました。
  これでトレッキングも安全で便利になってくれればよかったのですが、そうはならないのがネパールです。なぜなら看板の中には非常に残念でいい加減なものが多く見受けられるからです。中には旅人を迷子にしてしまうような危険な看板すらあるので要注意です。

看板

  例を挙げて説明しましょう。上の写真はジリというエベレスト方面のトレッキングの玄関口にあたる街から1キロほど山道を歩いた場所にあった看板です。
  中心の丸印が現在地点で、そこから5方向に矢印が出ているという分かりやすい表示ではあるのですが、問題はこの看板が五叉路などではなく一本道のわきの立木に打ち付けられているという点にあります。
  一本道なので左右方向の矢印は分かります、しかし他の矢印は何なのでしょう?周辺を歩き回った結果、上方向の矢印は地元の人が通る獣道で、斜め右上の矢印はここから少し歩いたところに石畳の分かれ道が見つかりました。下向きの矢印はついに当てはまる道が発見できず分からずじまいでした。
  おそらく道を熟知している地元の人たちにとっては説明の必要もない正しい看板なのでしょう。上の矢印だけカッコ書きになっているのは獣道である事を表しているのかもしれませんし、もう少し捜索範囲を広げれば下向きの矢印も見つかったのかもしれません。しかし地元の人ではなくトレッキングに訪れたツーリストに分からなければ意味が無いではありませんか。

  結局店長は上向きの獣道を選んで歩き始めましたが、15分でT字路に突き当たって途方にくれました。T字路のほぼ正面にある家の人に左右どちらに行けばいいのかを聞くと、右でも左でもなくそのまま直進して家の横を突っ切って行けという意外な回答が返ってきました。どうやらこの家の人が普段使っているショートカットを親切に教えてくれたようです。
  ショートカットの道は細い上に分岐が多くて非常に迷いやすいので避けたいのですが、右と左のどちらが正解かわからない以上このショートカットに賭けるしかありませんでした。
  その後に続く苦労話はひとまず置いておくとして、店長が強調したいのは道案内の看板が全然役に立っていないという事です。

  続いて下の看板をご覧ください。ヘランブーと呼ばれるエリアにあった看板です。

看板

  この地域の村々とそこに至る道路が網羅された分かりやすい地域全体図だなどと勘違いしてはいけません。この地図にはいくつか致命的な欠点があります。

1.現在地がない
  普通看板がある場所(自分がいる場所)が赤丸で示されていたりするものですが、この看板にはそれがありません。目的地の村までの道が分かっても自分がどこにいるのかわからないのではどっちに歩き出せばいいのか判断できません。

2.方角が分からない
  普通地図は北が上になっていますよね? でもこの地図はおそらくこの周辺に住む村人が頭の中に持っている概念図を絵にしたものであって、方向の情報が極めていい加減です。つまり地図のある場所では北が上だが別の場所では左だったり下だったりします。よって方位磁石を持っていてもこの地図をあてにはできません。

3.道路が実際の道路の一部しか描かれていない
  実際に歩いてみると道路はこんなに単純ではなく、ここに描かれていない分かれ道が多くあります。しかも描かれていない道の方が太かったりします。なので「地図では次の分かれ道を右に行けば目的の村に着く」と信じていると、地図にない道を右に曲がってしまいとんでもない所に着いたりします。

  まさにトレッキング客を迷わせるために作られたような恐ろしい看板です。しかし更に恐ろしことに、これにはまだ続きがあるのです。下の看板をご覧ください。

看板

  上の看板はチリ(CHIRI)村にあった看板です。下側の矢印はまあいいでしょう、隣村の名前は確かにタレパティ(THAREPATI)で、更に5~6時間歩けばメラムチギャン(MALAMCHIGHYANG)に着くからです。ですが問題は上の矢印です。看板ではチリの隣村がガンギュル(GANGYUL)で、タルケギャン(TARKEGHYANG)まで5分と表示されています。
  実際に歩いてみるとこれは大嘘でした。隣村の名前は合っていますがタルケギャンまでは優に1時間は歩きます。さらに二つ上の写真の緑の大きい看板の中のチリ村やタルケギャンの位置関係と明らかに矛盾しています。
  つまり地域全体を表示した緑の看板そのものがいい加減である上に道の途上にある個々の看板が互いに矛盾しているのです。こんな看板を信じて歩き出したら夏場はまだしも冬場は本当にシャレになりません、遭難の可能性が十分あります。

  ネパール・ツーリズム・イアーから8年が経過し、ヒマラヤ山中には更に多くの新しい道が作られています。しかし相変わらず看板は古いままで、これらの看板の危険度は更に増しています。政府の指示で作られたので勝手に撤去もできず、地元の人たちにとってはそもそも不要なものなので放置されるのは当然なのです。
  更新できないならこれ以上の被害が出ないうちに早く撤去の指示をして欲しいものですが、しないでしょうねぇ...。

  もしこれを読んでいる皆さんがヒマラヤトレッキングをすることになったら、事前に信用できる地図を購入した上でGPSを活用し、看板はあくまで参考にとどめてください。信用するとエライことになります。

南アジアの武器・武具 その7

2019年9月1日

  南アジアの武器・武具シリーズ第七弾はシン・タパのククリです。
  アマル・シン・タパはグルカ戦争(1814-1816)のネパール軍の将軍にして国民的英雄です。彼の勇猛さは虎にも例えられ、カトマンズにある軍事博物館にはその雄姿が展示されています。

シン・タパ

  グルカ戦争とはザックリ言うとイギリスとネパールの間の戦争です。当時、インドを征服して植民地化したイギリスは世界最強ともいわれる陸軍を持っていました。まさに大英帝国の全盛期ですね。対するネパールは人数も兵の練度も装備もイギリス軍よりはるかに貧弱です。なにしろネパール側の主要装備は(銃もある事はありましたが)弓矢とククリなのですから。
  インドとネパールはお隣同士の国なのでネパールは非常に危険な立場にあったわけです。イギリスとのイザコザは可能な限り避けたいところです。
  そんな時にイギリス支配下のインドとネパールとの間に国境紛争が起ってしまいました。当然、優秀かつ冷静な軍人であったシン・タパは開戦に反対しました。しかし主流派は状況が分かっていません ”ネパールはヒンドゥーの神々に守られた国なので負けるわけがない” などと真珠湾攻撃前の日本みたいなことを主張してついに戦争に突入してしまいました。

  誠に信じがたいことに、最初の会戦では11門の野戦砲をはじめとする当時最新の装備とネパール軍の5倍の人数を誇るイギリス軍に対しネパール側が勝利してしまいました。
  これは実に異例なことです。なぜならランチェスターの法則によれば機動部隊の戦力比は装備や練度が同じならその人数の二乗に比例することが分かっているからです。この場合の人数比は5倍ですから戦力比は実に25倍だったはずです。いや、装備や練度もイギリス軍が上でしたから実質戦力比は30~40倍はあったはずで、どう考えても勝てるはずがなかったのです。
  これはヒンドゥーの神々が味方したわけではなく、何よりグルカ兵が鬼のように白兵戦に強かったことが主原因でしょう。以前の店長日記でも紹介しましたように、こと白兵戦に関してはグルカ兵は単身で40人の盗賊団を壊滅させる力を持っているのですから、40倍の戦力比をひっくり返しても不思議ではありません。
  それに加えて慣れないジャングル戦でイギリス軍が装備を活かせなかった事も原因でしょう。
  ネパール側はここで講和しておけばよかったのです。しかし初戦の勝利に調子に乗って戦争が長引き、ジャングル戦にも慣れ装備と人数で圧倒的に勝るイギリス軍に対してズルズルと負け戦が続いた挙句、1年と4か月後に講和と引き換えにネパールにとって非常に不利なスガウリ条約を結ばざるを得なくなりました。

  この戦争でネパールは国土の多くを失いましたが辛くも植民地化は免れ、同時にグルカ兵の尋常ではない強さがイギリスに知れ渡り、のちにイギリス軍にグルカ旅団ができるきっかけとなりました。
  ちなみに日頃から大国インドの経済的影響をモロに受けて少なからずモヤモヤしたものが心に溜まっている現代のネパール人にとって ”インドはイギリスに征服されて植民地になったが、ネパールは装備と人数に押し切られたもののよく戦って植民地化を免れ独立を守った”という事実は大きな誇りでなのです。

  さてシン・タパに話を戻しましょう。当時彼が愛用していたククリは独特の物でした。通常ククリのブレードは”く”の字型に湾曲していますが、シン・タパのククリは曲がりが異常に大きくまるでブーメランのようです。下の写真をご覧ください。

シン・タパ

  左側が当店で販売している白兵戦用大型モデル、真ん中が同じく当店で販売している山岳系のククリであるメラムチ、そして右側がネパール国立博物館所蔵のシン・タパのククリです。当店のククリのブレードの湾曲は10~15度ほどであることに対してシン・タパのククリは30~40度ほども曲がっています。

  店長はネパール各地のククリを目にしていますが、ここまで極端に湾曲したククリが使われている所は見たことがありません。とはいえ店長が知らないだけでシン・タパの出身地である西ネパールの様式なのかもしれませんので断言はできませんが、このタイプのククリはシン・タパ以前は存在しなかったのではないかと思います。つまりこの大きな曲がり具合は伝統的なものでも地域的なものでもなく純粋に彼の趣味で作らせたものだということです。日本でも趣味(?)で変な槍や刀や兜を作らせた武将がいますよね。
  シン・タパが国民的な英雄になってからはこの湾曲が大きなククリはアマル・シン・タパ・ククリとかシン・タパ モデルなどと呼ばれて有名になりました。彼にあやかって今でも少しは作られているようです。しかし、やはり使いづらかったのかここまで湾曲が大きいククリはその後定着することはなかったようです。

  伝説によれば、事実上の敗戦後シン・タパは軍を引責辞任して寺院に身を寄せ、最後はヒマラヤ奥地の聖地ゴサイングンド(標高4,380mにある神秘の湖、下の写真)を目指したが途中で息を引き取った、という事になっています。

シン・タパ

シン・タパ

ハレの日の御馳走

2019年8月1日

  かなり前の店長日記でネパールの食事のスタンダードはダルバートであると書いたと思います。ダルバートはご飯に野菜料理と豆のスープがセットになった物の事で、日本で言うなら白飯+みそ汁+鮭の塩焼的な代表的な食事メニューです。このご飯+野菜+豆スープは最低限のセットであって、これにアチャールと呼ばれる漬物のような物が付いたりもします。こうした質素なダルバートが下の写真です。

御馳走

  これが普通の御家庭で毎日朝夕食べられている典型例だと思ってください。この写真では野菜料理はほうれん草の炒め物と生キュウリです。左側の小皿がアチャールで、本当に日本の漬物のように色々な種類があり、各家庭でバリエーションが豊富ですが大抵は非常に辛いです。ひょっとして日本のカレーの福神漬のルーツはこれなのでは?と店長は思っています。

  さて次は豪華版ダルバートを紹介します。御覧下さいこの品数の多さを!ご飯と豆スープの他に野菜が4品、肉料理が3品、アチャールが2種類+生野菜、更にヨーグルトとパパドと呼ばれる薄焼きせんべいのような物まで付いています。

御馳走

  しかしこれは観光客向けのレストランで出されるダルバートであって、ネパールの人達の御家庭ではまず食べられることはありません。値段も通常のサラリーマンの日給に相当するくらいの額ですので食べるのはやはり外国人観光客くらいのものです。

  ところが、一般ネパール人がこのダルバートをはるかに上まわる御馳走を食べる時があるのです。それはズバリ伝統的なイベントがある日です。結婚式や特別な年になったら行う宗教行事の時には10品20品あたりまえの超豪華な食事が振舞われます。
  下の写真などがその例で、テーブルの上には数mに渡って料理が並んでいます。女性の服が金の刺繍入りの高級サリーである事からも何らかの伝統行事であることがわかります。

御馳走

御馳走

  国連から世界最貧国の指定を受けているネパールでは、食事も平均すると日本よりかなり質素だと言わざるをえません。しかしネパールでは普段の何でもない日とハレの日との差が激しいのです。ハレの日の御馳走は普段の食事からは考えられないほど豪華で、大人も子供も何日も前からそれを楽しみにしています。

  我々の祖父母の時代には同様に正月の餅つきが待ち遠しかったり、年に一度の祭りの特別な料理が楽しみだったりしたと聞きます。しかし最近の日本の食事は中途半端に豪華になったせいか、「特別な御馳走を楽しみに待つ」事が少なくなった気がします。
  食事に限らず、生活のメリハリの点ではネパールの方が現代の日本より楽しみ方がうまいと感じます。

南アジアの武器・武具 その6

2019年7月1日

  南アジアの武器・武具シリーズ第六弾はクファンジャル・ダガーです。
  クファンジャルは曲がった刃を持つ諸刃のナイフです。元々は中東のオマーンが発祥の地だったらしいですが、そこからペルシャを経由して東方へ広がりインド・ネパールといった南アジアでも使われるようになりました。
  下の写真はネパールの国立博物館所蔵のクファンジャルです。伝搬の過程で初めは刃がJ字型だったものがややまっすぐになったようですが、この写真のクファンジャルは特にまっすぐなタイプです。グリップはおそらく象牙製で獅子の頭が彫り込まれています。写真では分りづらいですがグリップはややすり減っており刃には使用痕がありますのでこれは実用品と思われます。

クファンジャル

  店長はインドのデリーの国立博物館でクファンジャルを実際に手に取ってみる機会がありました。下の写真がその時の物で、手と較べると大きさがよくわかります。刃渡り僅か13cm、ブレードの中央部にカリグラフィーが描かれています。刃の曲がり具合は南アジアのクファンジャルとしてはごく一般的なものです。

クファンジャル

  更に下の写真のように、グリップと鞘は金属の美しい透かし彫りになっており柄頭は山羊の頭になっているなど非常に手が込んでいるところを見ると、どうやら実用品ではなく儀礼用または美術品としてのクファンジャルのようです。

クファンジャル

  ちなみにインド海軍のミサイルコルベット艦に”クファンジャル”という名前の艦があります。この艦の記章(船を識別するマーク)はもちろんクファンジャルです。下図がその記章です。

クファンジャル

  クファンジャルと出自が似たナイフにペシュ・カブズがあります。ペシュ・カブズはもともとは中東のペルシャ周辺で発祥したナイフでしたが時代を経てパキスタン、アフガニスタン、インドやネパールといった南アジアにまで伝わりました。
  下の写真はネパールの国立博物館所蔵のペシュ・カブズです。パッと見は出刃包丁のようなナイフで、刃は上側の写真のように若干反っているものと下側の写真のように直線的なものがあります。またペシュ・カブズはフルタングで峰が異常に分厚く、先端が針のように鋭利なのが特徴です。なぜならこのナイフは地面に押さえつけた相手の甲冑や鎖帷子のわずかな隙間に針のような先端をねじ込んでそのまま全体重をかけて貫通させるためのナイフだからです。恐ろしいですね。

ペシュカブズ

  この種の伝統的なナイフは銃器が発達して甲冑が時代遅れになるにつれて廃れていくものです。クファンジャルがそのよい例で、発祥の地であるオマーンではすでに儀礼用でしか使われなくなっています。
  ペシュ・カブズもその例に漏れず一時期はほとんど使われることがなくなりました。しかし20世紀末に勃発したアフガニスタン紛争でその実用性が見直され、敵にとどめを刺す際に使われたり護身用に持ち歩かれるようになって再び現役復帰した珍しいナイフです。
  どちらも中東起源で大きさやデザインも似ているにもかかわらず地域の事情によりその運命は違ったものになりました。ひょっとしたらこのシリーズで取り上げられた他の伝統的なナイフ達も戦争や動乱がきっかけでまた息を吹き返す事があるのかもしれません。
  店長は戦争は大嫌いですが個人的にはチャクラムやブンディ・ダガーが活躍する世界を見てみたい気がします。

ヒマラヤの湖 アイスレイク

2019年6月1日
  今回は店長がネパール出張中ですので、ネパールから店長日記をお届けします。最近はヒマラヤ山中でもWi-Fiが使えるのですから驚きです。一昔前は電波どころか電気すらなかったというのに....。
  出張の目的は当店と契約する鍛冶工房の工房長と新商品の仕様の打ち合わせをすることです。一発で満足がいくものができた試しがないので、今回も仕様変更と細部の修正に半年はかかるでしょう。
  運がよければ来年早々に皆様にお披露目できると思います。

  さて、日本から持ってきた要修正/打直しのナイフを入国の当日に工房に引き渡したので、出来上がるまで1週間ほど時間がかかります。そこでせっかくですのでヒマラヤにトレッキングに行くことにしました。

  トレッキング用品は一式すべて当店の現地スタッフの家に保管してあるので手ぶらでネパール入りしても問題ないのです。目的地はアンナプルナ自然保護区にあるアイスレイクという湖です。
  アイスレイクの標高は4,600m。ちなみに富士山は3,776mですので、まあ富士山より高尾山1.5個分高い所にあると思ってください。酸素濃度は地表の半分ちょいです。
  半分ちょいの酸素濃度の所に店長のような素人がいきなり行くのは危険ですが、今はダイアモックスという良い薬があって高山病を(多少は)予防してくれます。ネパールで買えば10錠で100円ですので安いものです。

  ネパールの首都カトマンズからバスとジープを乗り継いでそこから更に1日歩いて、ようやくアイスレイク直下の村であるブラカに着きました。手元にある地図ではブラカ村の標高は3,489mなのでここから1,100m登って1,100m降りてくる、ということを1日でやらなくてはなりません。
  1,000m程度のピストンは珍しくありません。しかし問題はスタート地点の標高がすでに約3,500mだということです。やはり買っておいてよかった、ダイアモックス。

  登り始めたところで後ろを振り返ると、下の写真のようにCGじゃないか?と思うほどの眺めです。

アイスレイク

  4,200mほどまで登ると急に開けて広い草地が現れました。ヤクの放牧地です。夏の間ここで村人がテントを張ってヤクに草を食べさせて、秋に太ったヤクを村に降ろすのでしょう。
 
アイスレイク

  体力を振り絞ってようやくたどり着いたアイスレイクはこんな所でした(ただし地図と現地の標識がどうも違っているようで、このちょっと先にあったもう一つの湖の方がアイスレイクかもしれません)。ダイアモックスの副作用で手指の先がピリピリします。

アイスレイク

  このあたりは午後になると強風が吹き出すのであまりゆっくりはしていられません。携帯食を食べたらすぐに今来た道をそのまま引き返します。
  ちなみにスタート地点から何故かずーと後を付いて来ている犬がいました。こちらがゼーゼー言いながら登っているのに平気な顔で、時々数百メートルほど先に進んでは丸くなって昼寝をしながらこっちが追いつくのを待っていたりするほど余裕があります。さすがに地元の犬ですね、こんな登りはほんの散歩に過ぎないのでしょう。
  下がその犬です。とぼけた顔をしていますがその体力は店長の比ではありません。

アイスレイク

  体力的に極めてキツかったアイスレイクでしたが、途中の放牧テントに立て掛けられたククリを見つけてちょっと嬉しくなった店長でした。

日本と同じ店、違う店

2019年5月1日
  日本にあるお店は、まあ大抵はネパールにも同種の店があります。肉屋さんや魚屋さんからファストフードやピザ屋のデリバリーまで最近はあります。ですがあくまで”同種”であってその醸し出す雰囲気は日本の物とは別物である場合も多いのです。

  まず日本と変わらないものからいきます。下の写真は数年前にできたショッピングモールです。キレイな外観で中も日本のショッピングモールとほぼ変わりがありません。その下はスポーツジムの入り口です。まあ、地方に行けばこんなジムもありますよね。

お店

お店

  次は金物屋です。この辺から徐々に違いが現れてきます。一見日本の地方都市の金物屋と変わらないようにも見えますが、この雑然とした空気感といい藁でできた製品がそれとなくぶら下がっている所といい、そして何より商品が錆びている所などは明らかに違います。金属製品は錆びるのが当たり前なので多少の錆はネパールでは誰も気にしません。
 
お店

  はい、八百屋です。伝統のある朝市などでは日本でもこんな感じで販売されていますね。地面に敷いた50cm四方の布の上に野菜を並べて地べたに直接座って販売する形式も、たまーに日本でも見かける事があります。
  自転車での移動販売も40~50年前の日本では普通にありましたが、今ではちょっと珍しいですね。

お店

お店

お店

  下の写真は布地屋です。”落ち着き”や”渋さ”とは無縁な目が痛くなるようなカラーリングの布が天井まで積みあがっています。中に入ると一段高くなった畳2畳ほどのスペースがあって、靴を脱いでそこに上がって布を広げて見ることができます。色を別にすれば日本の呉服屋に似ています。

お店

  さて、続いては扱っている品物は同じでも販売方法が日本とは大きく違うお店です。下の写真は肉屋です。店頭に横たわっているのは惨殺死体ではなくお店の商品です。ここまでワイルドな販売方法をとっている店は日本にはまずないでしょう。
  その下の青い屋根の家は牛乳屋さんです。中に入るとミルク缶が並んでおり、お金を払うと持ってきた器に直接そそいでくれます。衛生状態は雪印や明治乳業が見たら気を失うくらいのレベルかもしれませんが、牛乳は沸かしてから飲むのが基本のネパールですからそれでいいのでしょう。
  以前の店長日記でも書いたように、無殺菌の生乳は美味ですが日本ではほとんど販売されていません。ですがネパールではリスクを承知の上でならこのようなお店で日本以上に美味しい牛乳を飲むことができます。

お店

お店

お店

  では最後に日本にはほぼ存在しないか、かなり希少といっていいお店の紹介です。写真は銅製品屋です。そもそも”銅製品屋”なんて日本にあるとしてもよほどの専門店でしょう。ですがネパールではその辺に普通にあります。なぜならそれだけ需要があるからなのです。
  扱っているのは銅、真鍮、青銅などで作られた水入れや食器類や装飾品や日用品などで寺院の飾りや器具類も置いています。ネパール人(特にネワール族)は昔から銅製品の加工技術に優れており、今でこそプラスチック製品やステンレスに押されていますが、ちょっと前までは重さ10kgを超える一抱えもあるような銅製の水入れが嫁入り道具として欠かせないものであり、かつ貴重な財産だったのです。

お店

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  そして当店としてはこれははずせないお店、日本にはないククリ屋です。どうですか、大きいもので刃渡り80cmはあろうかという数十本のククリは。日本では包丁の専門店でもここまでのディスプレイはしていないでしょう。こんな店がカトマンズ市内にたくさんあるのです。

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  どうも銃刀法などという法律があるせいか日本では堂々と胸を張って店先に刃物を並べられない雰囲気があります。ククリに限らずこんなに派手にナイフをディスプレイしているお店は日本では非常に稀でしょう。明治9年の廃刀令から140年以上が経った現在、日本では道具としてのナイフの扱われ方は少々残念なものがあります。
  無人島に流れ着いた人がナイフを持っているかいないかでその後の生存率が数倍違うという話があります。人間の生きる力を何倍にもしてくれるこんな魔法のような道具は他にはありません。ナイフは人間にとって石器時代までさかのぼる頼れる相棒なのです。
  しかしながら素晴らしい道具は犯罪にも悪用されてしまいます。また包丁とククリに区別がないネパールの常識をそのまま日本に持ち込むわけにもいきません。なので日本に上の写真のようなお店が増えてほしいなどとは簡単には言えません、しかし日本でももう少しナイフの価値が見直されてもいいと思うのです。

南アジアの武器・武具 その5

2019年4月1日

  南アジアの武器・武具シリーズ第五弾はブンディ・ダガー、またの名をジャマダハルと言います。
  これまたファンタジーの世界ではお馴染みの武器ですね。インド・ネパール周辺ではククリ同様伝統ある武器なのですが、ククリがネパール軍やイギリス軍グルカ旅団の正式採用品で現役バリバリの武器であるのとは違い、ブンディ・ダガーはもう実戦で使われることはなく、もちろん軍隊に配備されているという話も聞きません。

  ブンディ・ダガーは両手に一つづつ持つか、タルワールと同じくダルとセットで使われることが多いようです。下の写真は19世紀初頭のパルパ戦争の戦利品としてネパールの国立博物館に展示されていたものです。

ダガー

  ブンディ・ダガーの持ち方は、刀身の後ろの横に二本並んだ金属棒を握り込んで刀身と反対側に伸びている金属棒を前腕と平行にします。握りこぶしの延長上に刃がある感じです。
  この”握りこぶしに刃が生えた”という点がポイントで、その運用はボクシングの技に近いものがあります。それに加えてボクシングにはない横に斬り払う使い方もでき、腕と平行な金属棒部分で相手の斬撃を受け止めることもできます。
  ブンディ・ダガーは貫通力が高いため、相手が甲冑を着ていても甲冑の弱い部分を貫通させたり、切っ先を甲冑の隙間に差し込んで体重をかけて突き通す事ができます。
  しかし近代戦では銃器の進歩が著しく、甲冑では小銃弾を防ぎきれなくなっため20世紀に入るころには装甲騎兵による抜刀突撃も甲冑そのものも用いられなくなりました。更に接近戦や白兵戦が激減して、戦闘は主に遠くから撃ち合うものに変化してしまいました。これではブンディ・ダガーの使いどころがありません。これがブンディ・ダガーが戦闘の表舞台から消えていった原因の一つなのでしょう。

  さて、表舞台に出ることがない武器と言えばもう一つ南アジア圏で用いられてきたものがあります。ビチュワです。ブンディ・ダガーにくらべてビチュワの知名度は格段に低いと思います。それもそのはず、ビチュワは暗器(隠し武器)として使われることが多く、あまり人目に触れるものではなかったのです。
  ビチュワは袖や帯の中に見えないようにして持ち歩きターゲットの内臓深く差し込んで素早く立ち去るという恐ろしい使われ方をされてきました。日本や中国で言うなら匕首のような使われ方です。
  下の写真をご覧ください。これはネパールの国立博物館所蔵のビチュワです。握力が弱い女性でもしっかり刺し通せ、かつ取り落とすことのないループ状になったグリップが特徴です。ビチュワとは元々サソリの尾という意味で、ブレードは細身の波打った形(写真左)か錐のように尖った形(写真右)をしています。

ダガー

  実際に使われた手裏剣の現存数が少ないように、このビチュワも表立って使われるものではないため大変に珍しい物で、このように博物館で展示されている例はネパールの国立博物館の武器庫以外では見たことがありません。

  もう一つおまけに表舞台に出ることのない刀剣を紹介しましょう、ラム・ダオです。これは生贄の首を刎ねることに特化した刀で、戦闘用ではありません。ネパールやインドといった神々に生贄を捧げる文化を持つ南アジアの国々で小規模に、しかし連綿と10世紀以上にわたって使われ続けてきた重要な宗教上の道具なのです。
  ラム・ダオは下の写真のように先端部に重心が置かれた独特な形状をしており、写真では分かり難いですがブレードに”目”が象嵌されています。刃渡り1mもあるブレードの形状は一刀のもとに首を刎ねるための機能的なものでしょう。そして”目”は呪術的な意味合いが濃いものだと思われます。

ラム・ダオ

  しかし妙にファンタジーの世界ではこの形状の大刀を見かけることがあります。ブレードの厚みや幅、長さからして日本刀(本差)3~4本分の重さは優にある上に先端部の重量が大きすぎますので、両手で持って振り上げて振り下ろすのが精いっぱいのシロモノでおよそ戦闘では実用的ではないはずなのですが、やはりこのインパクトのある形状に魅せられるのでしょう。

南アジアの武器・武具 その4

2019年3月1日

  また南アジアの武器・武具シリーズに戻ります。今回はダルの話です。
  下の写真をご覧ください。手の大きさと比べると分かりますが直径僅か40cmの丸い形をしたこれは何に使うのでしょうか?これは鍋の蓋でもなければタイヤのホイールキャップでもありません、ダルは盾なのです。シリーズその3で紹介したタルワールとよくセットになって展示されていたりします。
  盾というと体の大部分か少なくとも半分くらいはカバーするものを想像してしまいますが、それは槍や矢を防ぐための盾です。このダルは刀を持った相手と接近戦をするための盾なのです。大型の盾とは違って腕に固定するのではなく、裏側にある取っ手を掴みます。アイロンを熱い面を相手に向けて構えたイメージです。

ダル

ダルの使い方は以下のように多彩です。
 ①相手の斬撃を受け止める 
 ②曲面で相手の突きを逸らす 
 ③こちらの攻撃を相手の目から隠す 
 ④ぶん殴る 
 ⑤最後に組み打ちになったら相手の体に押し付けて動きを拘束する 
①と②は当然ですが、③も重要で、ダルを使って自分の剣と腕の初動を隠せば相手にとっては準備動作なしで突然に攻撃が来ることになり避けにくくなります。またダルは自由に振り回すことができるくらい小型軽量なので、大きめのメリケンサックとして④の用途に使われます。そして甲冑を着た者同士の接近戦の常として最後に組み打ちになった場合は、ダルを突きつけておけば簡単には組み付かれませんし、相手を地面に押さえつける時には手という”点”ではなく”面”で押さえつけることができます。

  下の写真はネパールの軍事博物館にあるグルカ戦争(1814~1816年にイギリスの東インド会社がネパールに侵攻した際に起こった戦争)の様子を描いた絵です。イギリス兵のサーベルをダルで受け止めようとしています。ちなみにネパール兵が右手に持っているのは当店のラインナップで言うと白兵戦用大型ククリと同じくらいのサイズのククリのようです。19世紀初頭まではダルが実戦で使われていたことが分かります。

ダル

  しかし銃器が発達した現在では上記のような実戦で使われることはなくなってしまいました。では何に使われているのかと言いますと、意外なことに主にインテリアとして使われています。下の写真をご覧ください。武器にしては武骨さがなく、丸みを帯びた外見であるため貴族の家の壁などにまるで絵画のように掛けられていたりします。
  更に下の写真はインドの首都デリー郊外のサンスクリット博物館に飾られているダルです。もはやお洒落な壁飾りとなっています。

ダル

ダル

  そもそもダルという言葉自体が”豆”という意味であまり武器らしくありません。日本人のイメージではあまり豆のように見えないかもしれませんが、さらに下の写真にあるように実はダルの形は南アジアで一般的に食べられている種類のお豆(レンズ豆)にそっくりなのです。

ダル

  ちなみに上記のグルカ戦争で辛くも全面敗北を免れはしたが自国に不利なスガウリ条約を結ばざるを得なくなったことを境にネパール軍の装備も急速に西洋化され、軍事博物館に展示されている19世紀末(グルカ戦争から50~60年後)のネパール軍騎兵の装備(下の写真)はグルカ戦争の絵に描かれたイギリス兵とあまり変わらないものになっています。

ダル

  この辺りは幕末に薩摩藩とイギリス軍との間に起こった薩英戦争、そして長州藩とフランス・イギリス・オランダ・アメリカとの間に起こった下関戦争の教訓に学んで、開国後に西洋式の常備軍を新設した日本と重なるところがあります。
  もっとも西洋国家に敗北した後に素早く開国して工業化にシフトした日本とは違って、ネパールが本格的に”開国”するまではグルカ戦争から更に百数十年を要し、その間にすっかり世界から取り残されてしまいました。
  ですがある意味そのおかげ(?)で「時が止まったようなヒマラヤの小国」という独特な地位を確立したわけです。うーむ、どっちが良かったのかなぁ...?

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