カートをみる ご利用案内 お問い合せ サイトマップ
RSS
バネ鋼

信用できない道案内看板

2019年10月1日

  今からちょっと前の2011年はネパール・ツーリズム・イアーと銘打って政府主導でネパール国内の旅行施設の充実化が図られました。観光客への宣伝活動だけではなくホテルや道路の整備もなされ、ヒマラヤの山奥にすら道案内の看板が立ちました。
  これでトレッキングも安全で便利になってくれればよかったのですが、そうはならないのがネパールです。なぜなら看板の中には非常に残念でいい加減なものが多く見受けられるからです。中には旅人を迷子にしてしまうような危険な看板すらあるので要注意です。

看板

  例を挙げて説明しましょう。上の写真はジリというエベレスト方面のトレッキングの玄関口にあたる街から1キロほど山道を歩いた場所にあった看板です。
  中心の丸印が現在地点で、そこから5方向に矢印が出ているという分かりやすい表示ではあるのですが、問題はこの看板が五叉路などではなく一本道のわきの立木に打ち付けられているという点にあります。
  一本道なので左右方向の矢印は分かります、しかし他の矢印は何なのでしょう?周辺を歩き回った結果、上方向の矢印は地元の人が通る獣道で、斜め右上の矢印はここから少し歩いたところに石畳の分かれ道が見つかりました。下向きの矢印はついに当てはまる道が発見できず分からずじまいでした。
  おそらく道を熟知している地元の人たちにとっては説明の必要もない正しい看板なのでしょう。上の矢印だけカッコ書きになっているのは獣道である事を表しているのかもしれませんし、もう少し捜索範囲を広げれば下向きの矢印も見つかったのかもしれません。しかし地元の人ではなくトレッキングに訪れたツーリストに分からなければ意味が無いではありませんか。

  結局店長は上向きの獣道を選んで歩き始めましたが、15分でT字路に突き当たって途方にくれました。T字路のほぼ正面にある家の人に左右どちらに行けばいいのかを聞くと、右でも左でもなくそのまま直進して家の横を突っ切って行けという意外な回答が返ってきました。どうやらこの家の人が普段使っているショートカットを親切に教えてくれたようです。
  ショートカットの道は細い上に分岐が多くて非常に迷いやすいので避けたいのですが、右と左のどちらが正解かわからない以上このショートカットに賭けるしかありませんでした。
  その後に続く苦労話はひとまず置いておくとして、店長が強調したいのは道案内の看板が全然役に立っていないという事です。

  続いて下の看板をご覧ください。ヘランブーと呼ばれるエリアにあった看板です。

看板

  この地域の村々とそこに至る道路が網羅された分かりやすい地域全体図だなどと勘違いしてはいけません。この地図にはいくつか致命的な欠点があります。

1.現在地がない
  普通看板がある場所(自分がいる場所)が赤丸で示されていたりするものですが、この看板にはそれがありません。目的地の村までの道が分かっても自分がどこにいるのかわからないのではどっちに歩き出せばいいのか判断できません。

2.方角が分からない
  普通地図は北が上になっていますよね? でもこの地図はおそらくこの周辺に住む村人が頭の中に持っている概念図を絵にしたものであって、方向の情報が極めていい加減です。つまり地図のある場所では北が上だが別の場所では左だったり下だったりします。よって方位磁石を持っていてもこの地図をあてにはできません。

3.道路が実際の道路の一部しか描かれていない
  実際に歩いてみると道路はこんなに単純ではなく、ここに描かれていない分かれ道が多くあります。しかも描かれていない道の方が太かったりします。なので「地図では次の分かれ道を右に行けば目的の村に着く」と信じていると、地図にない道を右に曲がってしまいとんでもない所に着いたりします。

  まさにトレッキング客を迷わせるために作られたような恐ろしい看板です。しかし更に恐ろしことに、これにはまだ続きがあるのです。下の看板をご覧ください。

看板

  上の看板はチリ(CHIRI)村にあった看板です。下側の矢印はまあいいでしょう、隣村の名前は確かにタレパティ(THAREPATI)で、更に5~6時間歩けばメラムチギャン(MALAMCHIGHYANG)に着くからです。ですが問題は上の矢印です。看板ではチリの隣村がガンギュル(GANGYUL)で、タルケギャン(TARKEGHYANG)まで5分と表示されています。
  実際に歩いてみるとこれは大嘘でした。隣村の名前は合っていますがタルケギャンまでは優に1時間は歩きます。さらに二つ上の写真の緑の大きい看板の中のチリ村やタルケギャンの位置関係と明らかに矛盾しています。
  つまり地域全体を表示した緑の看板そのものがいい加減である上に道の途上にある個々の看板が互いに矛盾しているのです。こんな看板を信じて歩き出したら夏場はまだしも冬場は本当にシャレになりません、遭難の可能性が十分あります。

  ネパール・ツーリズム・イアーから8年が経過し、ヒマラヤ山中には更に多くの新しい道が作られています。しかし相変わらず看板は古いままで、これらの看板の危険度は更に増しています。政府の指示で作られたので勝手に撤去もできず、地元の人たちにとってはそもそも不要なものなので放置されるのは当然なのです。
  更新できないならこれ以上の被害が出ないうちに早く撤去の指示をして欲しいものですが、しないでしょうねぇ...。

  もしこれを読んでいる皆さんがヒマラヤトレッキングをすることになったら、事前に信用できる地図を購入した上でGPSを活用し、看板はあくまで参考にとどめてください。信用するとエライことになります。

南アジアの武器・武具 その7

2019年9月1日

  南アジアの武器・武具シリーズ第七弾はシン・タパのククリです。
  アマル・シン・タパはグルカ戦争(1814-1816)のネパール軍の将軍にして国民的英雄です。彼の勇猛さは虎にも例えられ、カトマンズにある軍事博物館にはその雄姿が展示されています。

シン・タパ

  グルカ戦争とはザックリ言うとイギリスとネパールの間の戦争です。当時、インドを征服して植民地化したイギリスは世界最強ともいわれる陸軍を持っていました。まさに大英帝国の全盛期ですね。対するネパールは人数も兵の練度も装備もイギリス軍よりはるかに貧弱です。なにしろネパール側の主要装備は(銃もある事はありましたが)弓矢とククリなのですから。
  インドとネパールはお隣同士の国なのでネパールは非常に危険な立場にあったわけです。イギリスとのイザコザは可能な限り避けたいところです。
  そんな時にイギリス支配下のインドとネパールとの間に国境紛争が起ってしまいました。当然、優秀かつ冷静な軍人であったシン・タパは開戦に反対しました。しかし主流派は状況が分かっていません ”ネパールはヒンドゥーの神々に守られた国なので負けるわけがない” などと真珠湾攻撃前の日本みたいなことを主張してついに戦争に突入してしまいました。

  誠に信じがたいことに、最初の会戦では11門の野戦砲をはじめとする当時最新の装備とネパール軍の5倍の人数を誇るイギリス軍に対しネパール側が勝利してしまいました。
  これは実に異例なことです。なぜならランチェスターの法則によれば機動部隊の戦力比は装備や練度が同じならその人数の二乗に比例することが分かっているからです。この場合の人数比は5倍ですから戦力比は実に25倍だったはずです。いや、装備や練度もイギリス軍が上でしたから実質戦力比は30~40倍はあったはずで、どう考えても勝てるはずがなかったのです。
  これはヒンドゥーの神々が味方したわけではなく、何よりグルカ兵が鬼のように白兵戦に強かったことが主原因でしょう。以前の店長日記でも紹介しましたように、こと白兵戦に関してはグルカ兵は単身で40人の盗賊団を壊滅させる力を持っているのですから、40倍の戦力比をひっくり返しても不思議ではありません。
  それに加えて慣れないジャングル戦でイギリス軍が装備を活かせなかった事も原因でしょう。
  ネパール側はここで講和しておけばよかったのです。しかし初戦の勝利に調子に乗って戦争が長引き、ジャングル戦にも慣れ装備と人数で圧倒的に勝るイギリス軍に対してズルズルと負け戦が続いた挙句、1年と4か月後に講和と引き換えにネパールにとって非常に不利なスガウリ条約を結ばざるを得なくなりました。

  この戦争でネパールは国土の多くを失いましたが辛くも植民地化は免れ、同時にグルカ兵の尋常ではない強さがイギリスに知れ渡り、のちにイギリス軍にグルカ旅団ができるきっかけとなりました。
  ちなみに日頃から大国インドの経済的影響をモロに受けて少なからずモヤモヤしたものが心に溜まっている現代のネパール人にとって ”インドはイギリスに征服されて植民地になったが、ネパールは装備と人数に押し切られたもののよく戦って植民地化を免れ独立を守った”という事実は大きな誇りでなのです。

  さてシン・タパに話を戻しましょう。当時彼が愛用していたククリは独特の物でした。通常ククリのブレードは”く”の字型に湾曲していますが、シン・タパのククリは曲がりが異常に大きくまるでブーメランのようです。下の写真をご覧ください。

シン・タパ

  左側が当店で販売している白兵戦用大型モデル、真ん中が同じく当店で販売している山岳系のククリであるメラムチ、そして右側がネパール国立博物館所蔵のシン・タパのククリです。当店のククリのブレードの湾曲は10~15度ほどであることに対してシン・タパのククリは30~40度ほども曲がっています。

  店長はネパール各地のククリを目にしていますが、ここまで極端に湾曲したククリが使われている所は見たことがありません。とはいえ店長が知らないだけでシン・タパの出身地である西ネパールの様式なのかもしれませんので断言はできませんが、このタイプのククリはシン・タパ以前は存在しなかったのではないかと思います。つまりこの大きな曲がり具合は伝統的なものでも地域的なものでもなく純粋に彼の趣味で作らせたものだということです。日本でも趣味(?)で変な槍や刀や兜を作らせた武将がいますよね。
  シン・タパが国民的な英雄になってからはこの湾曲が大きなククリはアマル・シン・タパ・ククリとかシン・タパ モデルなどと呼ばれて有名になりました。彼にあやかって今でも少しは作られているようです。しかし、やはり使いづらかったのかここまで湾曲が大きいククリはその後定着することはなかったようです。

  伝説によれば、事実上の敗戦後シン・タパは軍を引責辞任して寺院に身を寄せ、最後はヒマラヤ奥地の聖地ゴサイングンド(標高4,380mにある神秘の湖、下の写真)を目指したが途中で息を引き取った、という事になっています。

シン・タパ

シン・タパ

ハレの日の御馳走

2019年8月1日

  かなり前の店長日記でネパールの食事のスタンダードはダルバートであると書いたと思います。ダルバートはご飯に野菜料理と豆のスープがセットになった物の事で、日本で言うなら白飯+みそ汁+鮭の塩焼的な代表的な食事メニューです。このご飯+野菜+豆スープは最低限のセットであって、これにアチャールと呼ばれる漬物のような物が付いたりもします。こうした質素なダルバートが下の写真です。

御馳走

  これが普通の御家庭で毎日朝夕食べられている典型例だと思ってください。この写真では野菜料理はほうれん草の炒め物と生キュウリです。左側の小皿がアチャールで、本当に日本の漬物のように色々な種類があり、各家庭でバリエーションが豊富ですが大抵は非常に辛いです。ひょっとして日本のカレーの福神漬のルーツはこれなのでは?と店長は思っています。

  さて次は豪華版ダルバートを紹介します。御覧下さいこの品数の多さを!ご飯と豆スープの他に野菜が4品、肉料理が3品、アチャールが2種類+生野菜、更にヨーグルトとパパドと呼ばれる薄焼きせんべいのような物まで付いています。

御馳走

  しかしこれは観光客向けのレストランで出されるダルバートであって、ネパールの人達の御家庭ではまず食べられることはありません。値段も通常のサラリーマンの日給に相当するくらいの額ですので食べるのはやはり外国人観光客くらいのものです。

  ところが、一般ネパール人がこのダルバートをはるかに上まわる御馳走を食べる時があるのです。それはズバリ伝統的なイベントがある日です。結婚式や特別な年になったら行う宗教行事の時には10品20品あたりまえの超豪華な食事が振舞われます。
  下の写真などがその例で、テーブルの上には数mに渡って料理が並んでいます。女性の服が金の刺繍入りの高級サリーである事からも何らかの伝統行事であることがわかります。

御馳走

御馳走

  国連から世界最貧国の指定を受けているネパールでは、食事も平均すると日本よりかなり質素だと言わざるをえません。しかしネパールでは普段の何でもない日とハレの日との差が激しいのです。ハレの日の御馳走は普段の食事からは考えられないほど豪華で、大人も子供も何日も前からそれを楽しみにしています。

  我々の祖父母の時代には同様に正月の餅つきが待ち遠しかったり、年に一度の祭りの特別な料理が楽しみだったりしたと聞きます。しかし最近の日本の食事は中途半端に豪華になったせいか、「特別な御馳走を楽しみに待つ」事が少なくなった気がします。
  食事に限らず、生活のメリハリの点ではネパールの方が現代の日本より楽しみ方がうまいと感じます。

南アジアの武器・武具 その6

2019年7月1日

  南アジアの武器・武具シリーズ第六弾はクファンジャル・ダガーです。
  クファンジャルは曲がった刃を持つ諸刃のナイフです。元々は中東のオマーンが発祥の地だったらしいですが、そこからペルシャを経由して東方へ広がりインド・ネパールといった南アジアでも使われるようになりました。
  下の写真はネパールの国立博物館所蔵のクファンジャルです。伝搬の過程で初めは刃がJ字型だったものがややまっすぐになったようですが、この写真のクファンジャルは特にまっすぐなタイプです。グリップはおそらく象牙製で獅子の頭が彫り込まれています。写真では分りづらいですがグリップはややすり減っており刃には使用痕がありますのでこれは実用品と思われます。

クファンジャル

  店長はインドのデリーの国立博物館でクファンジャルを実際に手に取ってみる機会がありました。下の写真がその時の物で、手と較べると大きさがよくわかります。刃渡り僅か13cm、ブレードの中央部にカリグラフィーが描かれています。刃の曲がり具合は南アジアのクファンジャルとしてはごく一般的なものです。

クファンジャル

  更に下の写真のように、グリップと鞘は金属の美しい透かし彫りになっており柄頭は山羊の頭になっているなど非常に手が込んでいるところを見ると、どうやら実用品ではなく儀礼用または美術品としてのクファンジャルのようです。

クファンジャル

  ちなみにインド海軍のミサイルコルベット艦に”クファンジャル”という名前の艦があります。この艦の記章(船を識別するマーク)はもちろんクファンジャルです。下図がその記章です。

クファンジャル

  クファンジャルと出自が似たナイフにペシュ・カブズがあります。ペシュ・カブズはもともとは中東のペルシャ周辺で発祥したナイフでしたが時代を経てパキスタン、アフガニスタン、インドやネパールといった南アジアにまで伝わりました。
  下の写真はネパールの国立博物館所蔵のペシュ・カブズです。パッと見は出刃包丁のようなナイフで、刃は上側の写真のように若干反っているものと下側の写真のように直線的なものがあります。またペシュ・カブズはフルタングで峰が異常に分厚く、先端が針のように鋭利なのが特徴です。なぜならこのナイフは地面に押さえつけた相手の甲冑や鎖帷子のわずかな隙間に針のような先端をねじ込んでそのまま全体重をかけて貫通させるためのナイフだからです。恐ろしいですね。

ペシュカブズ

  この種の伝統的なナイフは銃器が発達して甲冑が時代遅れになるにつれて廃れていくものです。クファンジャルがそのよい例で、発祥の地であるオマーンではすでに儀礼用でしか使われなくなっています。
  ペシュ・カブズもその例に漏れず一時期はほとんど使われることがなくなりました。しかし20世紀末に勃発したアフガニスタン紛争でその実用性が見直され、敵にとどめを刺す際に使われたり護身用に持ち歩かれるようになって再び現役復帰した珍しいナイフです。
  どちらも中東起源で大きさやデザインも似ているにもかかわらず地域の事情によりその運命は違ったものになりました。ひょっとしたらこのシリーズで取り上げられた他の伝統的なナイフ達も戦争や動乱がきっかけでまた息を吹き返す事があるのかもしれません。
  店長は戦争は大嫌いですが個人的にはチャクラムやブンディ・ダガーが活躍する世界を見てみたい気がします。

ヒマラヤの湖 アイスレイク

2019年6月1日
  今回は店長がネパール出張中ですので、ネパールから店長日記をお届けします。最近はヒマラヤ山中でもWi-Fiが使えるのですから驚きです。一昔前は電波どころか電気すらなかったというのに....。
  出張の目的は当店と契約する鍛冶工房の工房長と新商品の仕様の打ち合わせをすることです。一発で満足がいくものができた試しがないので、今回も仕様変更と細部の修正に半年はかかるでしょう。
  運がよければ来年早々に皆様にお披露目できると思います。

  さて、日本から持ってきた要修正/打直しのナイフを入国の当日に工房に引き渡したので、出来上がるまで1週間ほど時間がかかります。そこでせっかくですのでヒマラヤにトレッキングに行くことにしました。

  トレッキング用品は一式すべて当店の現地スタッフの家に保管してあるので手ぶらでネパール入りしても問題ないのです。目的地はアンナプルナ自然保護区にあるアイスレイクという湖です。
  アイスレイクの標高は4,600m。ちなみに富士山は3,776mですので、まあ富士山より高尾山1.5個分高い所にあると思ってください。酸素濃度は地表の半分ちょいです。
  半分ちょいの酸素濃度の所に店長のような素人がいきなり行くのは危険ですが、今はダイアモックスという良い薬があって高山病を(多少は)予防してくれます。ネパールで買えば10錠で100円ですので安いものです。

  ネパールの首都カトマンズからバスとジープを乗り継いでそこから更に1日歩いて、ようやくアイスレイク直下の村であるブラカに着きました。手元にある地図ではブラカ村の標高は3,489mなのでここから1,100m登って1,100m降りてくる、ということを1日でやらなくてはなりません。
  1,000m程度のピストンは珍しくありません。しかし問題はスタート地点の標高がすでに約3,500mだということです。やはり買っておいてよかった、ダイアモックス。

  登り始めたところで後ろを振り返ると、下の写真のようにCGじゃないか?と思うほどの眺めです。

アイスレイク

  4,200mほどまで登ると急に開けて広い草地が現れました。ヤクの放牧地です。夏の間ここで村人がテントを張ってヤクに草を食べさせて、秋に太ったヤクを村に降ろすのでしょう。
 
アイスレイク

  体力を振り絞ってようやくたどり着いたアイスレイクはこんな所でした(ただし地図と現地の標識がどうも違っているようで、このちょっと先にあったもう一つの湖の方がアイスレイクかもしれません)。ダイアモックスの副作用で手指の先がピリピリします。

アイスレイク

  このあたりは午後になると強風が吹き出すのであまりゆっくりはしていられません。携帯食を食べたらすぐに今来た道をそのまま引き返します。
  ちなみにスタート地点から何故かずーと後を付いて来ている犬がいました。こちらがゼーゼー言いながら登っているのに平気な顔で、時々数百メートルほど先に進んでは丸くなって昼寝をしながらこっちが追いつくのを待っていたりするほど余裕があります。さすがに地元の犬ですね、こんな登りはほんの散歩に過ぎないのでしょう。
  下がその犬です。とぼけた顔をしていますがその体力は店長の比ではありません。

アイスレイク

  体力的に極めてキツかったアイスレイクでしたが、途中の放牧テントに立て掛けられたククリを見つけてちょっと嬉しくなった店長でした。

日本と同じ店、違う店

2019年5月1日
  日本にあるお店は、まあ大抵はネパールにも同種の店があります。肉屋さんや魚屋さんからファストフードやピザ屋のデリバリーまで最近はあります。ですがあくまで”同種”であってその醸し出す雰囲気は日本の物とは別物である場合も多いのです。

  まず日本と変わらないものからいきます。下の写真は数年前にできたショッピングモールです。キレイな外観で中も日本のショッピングモールとほぼ変わりがありません。その下はスポーツジムの入り口です。まあ、地方に行けばこんなジムもありますよね。

お店

お店

  次は金物屋です。この辺から徐々に違いが現れてきます。一見日本の地方都市の金物屋と変わらないようにも見えますが、この雑然とした空気感といい藁でできた製品がそれとなくぶら下がっている所といい、そして何より商品が錆びている所などは明らかに違います。金属製品は錆びるのが当たり前なので多少の錆はネパールでは誰も気にしません。
 
お店

  はい、八百屋です。伝統のある朝市などでは日本でもこんな感じで販売されていますね。地面に敷いた50cm四方の布の上に野菜を並べて地べたに直接座って販売する形式も、たまーに日本でも見かける事があります。
  自転車での移動販売も40~50年前の日本では普通にありましたが、今ではちょっと珍しいですね。

お店

お店

お店

  下の写真は布地屋です。”落ち着き”や”渋さ”とは無縁な目が痛くなるようなカラーリングの布が天井まで積みあがっています。中に入ると一段高くなった畳2畳ほどのスペースがあって、靴を脱いでそこに上がって布を広げて見ることができます。色を別にすれば日本の呉服屋に似ています。

お店

  さて、続いては扱っている品物は同じでも販売方法が日本とは大きく違うお店です。下の写真は肉屋です。店頭に横たわっているのは惨殺死体ではなくお店の商品です。ここまでワイルドな販売方法をとっている店は日本にはまずないでしょう。
  その下の青い屋根の家は牛乳屋さんです。中に入るとミルク缶が並んでおり、お金を払うと持ってきた器に直接そそいでくれます。衛生状態は雪印や明治乳業が見たら気を失うくらいのレベルかもしれませんが、牛乳は沸かしてから飲むのが基本のネパールですからそれでいいのでしょう。
  以前の店長日記でも書いたように、無殺菌の生乳は美味ですが日本ではほとんど販売されていません。ですがネパールではリスクを承知の上でならこのようなお店で日本以上に美味しい牛乳を飲むことができます。

お店

お店

お店

  では最後に日本にはほぼ存在しないか、かなり希少といっていいお店の紹介です。写真は銅製品屋です。そもそも”銅製品屋”なんて日本にあるとしてもよほどの専門店でしょう。ですがネパールではその辺に普通にあります。なぜならそれだけ需要があるからなのです。
  扱っているのは銅、真鍮、青銅などで作られた水入れや食器類や装飾品や日用品などで寺院の飾りや器具類も置いています。ネパール人(特にネワール族)は昔から銅製品の加工技術に優れており、今でこそプラスチック製品やステンレスに押されていますが、ちょっと前までは重さ10kgを超える一抱えもあるような銅製の水入れが嫁入り道具として欠かせないものであり、かつ貴重な財産だったのです。

お店

お店

  そして当店としてはこれははずせないお店、日本にはないククリ屋です。どうですか、大きいもので刃渡り80cmはあろうかという数十本のククリは。日本では包丁の専門店でもここまでのディスプレイはしていないでしょう。こんな店がカトマンズ市内にたくさんあるのです。

お店

  どうも銃刀法などという法律があるせいか日本では堂々と胸を張って店先に刃物を並べられない雰囲気があります。ククリに限らずこんなに派手にナイフをディスプレイしているお店は日本では非常に稀でしょう。明治9年の廃刀令から140年以上が経った現在、日本では道具としてのナイフの扱われ方は少々残念なものがあります。
  無人島に流れ着いた人がナイフを持っているかいないかでその後の生存率が数倍違うという話があります。人間の生きる力を何倍にもしてくれるこんな魔法のような道具は他にはありません。ナイフは人間にとって石器時代までさかのぼる頼れる相棒なのです。
  しかしながら素晴らしい道具は犯罪にも悪用されてしまいます。また包丁とククリに区別がないネパールの常識をそのまま日本に持ち込むわけにもいきません。なので日本に上の写真のようなお店が増えてほしいなどとは簡単には言えません、しかし日本でももう少しナイフの価値が見直されてもいいと思うのです。

南アジアの武器・武具 その5

2019年4月1日

  南アジアの武器・武具シリーズ第五弾はブンディ・ダガー、またの名をジャマダハルと言います。
  これまたファンタジーの世界ではお馴染みの武器ですね。インド・ネパール周辺ではククリ同様伝統ある武器なのですが、ククリがネパール軍やイギリス軍グルカ旅団の正式採用品で現役バリバリの武器であるのとは違い、ブンディ・ダガーはもう実戦で使われることはなく、もちろん軍隊に配備されているという話も聞きません。

  ブンディ・ダガーは両手に一つづつ持つか、タルワールと同じくダルとセットで使われることが多いようです。下の写真は19世紀初頭のパルパ戦争の戦利品としてネパールの国立博物館に展示されていたものです。

ダガー

  ブンディ・ダガーの持ち方は、刀身の後ろの横に二本並んだ金属棒を握り込んで刀身と反対側に伸びている金属棒を前腕と平行にします。握りこぶしの延長上に刃がある感じです。
  この”握りこぶしに刃が生えた”という点がポイントで、その運用はボクシングの技に近いものがあります。それに加えてボクシングにはない横に斬り払う使い方もでき、腕と平行な金属棒部分で相手の斬撃を受け止めることもできます。
  ブンディ・ダガーは貫通力が高いため、相手が甲冑を着ていても甲冑の弱い部分を貫通させたり、切っ先を甲冑の隙間に差し込んで体重をかけて突き通す事ができます。
  しかし近代戦では銃器の進歩が著しく、甲冑では小銃弾を防ぎきれなくなっため20世紀に入るころには装甲騎兵による抜刀突撃も甲冑そのものも用いられなくなりました。更に接近戦や白兵戦が激減して、戦闘は主に遠くから撃ち合うものに変化してしまいました。これではブンディ・ダガーの使いどころがありません。これがブンディ・ダガーが戦闘の表舞台から消えていった原因の一つなのでしょう。

  さて、表舞台に出ることがない武器と言えばもう一つ南アジア圏で用いられてきたものがあります。ビチュワです。ブンディ・ダガーにくらべてビチュワの知名度は格段に低いと思います。それもそのはず、ビチュワは暗器(隠し武器)として使われることが多く、あまり人目に触れるものではなかったのです。
  ビチュワは袖や帯の中に見えないようにして持ち歩きターゲットの内臓深く差し込んで素早く立ち去るという恐ろしい使われ方をされてきました。日本や中国で言うなら匕首のような使われ方です。
  下の写真をご覧ください。これはネパールの国立博物館所蔵のビチュワです。握力が弱い女性でもしっかり刺し通せ、かつ取り落とすことのないループ状になったグリップが特徴です。ビチュワとは元々サソリの尾という意味で、ブレードは細身の波打った形(写真左)か錐のように尖った形(写真右)をしています。

ダガー

  実際に使われた手裏剣の現存数が少ないように、このビチュワも表立って使われるものではないため大変に珍しい物で、このように博物館で展示されている例はネパールの国立博物館の武器庫以外では見たことがありません。

  もう一つおまけに表舞台に出ることのない刀剣を紹介しましょう、ラム・ダオです。これは生贄の首を刎ねることに特化した刀で、戦闘用ではありません。ネパールやインドといった神々に生贄を捧げる文化を持つ南アジアの国々で小規模に、しかし連綿と10世紀以上にわたって使われ続けてきた重要な宗教上の道具なのです。
  ラム・ダオは下の写真のように先端部に重心が置かれた独特な形状をしており、写真では分かり難いですがブレードに”目”が象嵌されています。刃渡り1mもあるブレードの形状は一刀のもとに首を刎ねるための機能的なものでしょう。そして”目”は呪術的な意味合いが濃いものだと思われます。

ラム・ダオ

  しかし妙にファンタジーの世界ではこの形状の大刀を見かけることがあります。ブレードの厚みや幅、長さからして日本刀(本差)3~4本分の重さは優にある上に先端部の重量が大きすぎますので、両手で持って振り上げて振り下ろすのが精いっぱいのシロモノでおよそ戦闘では実用的ではないはずなのですが、やはりこのインパクトのある形状に魅せられるのでしょう。

南アジアの武器・武具 その4

2019年3月1日

  また南アジアの武器・武具シリーズに戻ります。今回はダルの話です。
  下の写真をご覧ください。手の大きさと比べると分かりますが直径僅か40cmの丸い形をしたこれは何に使うのでしょうか?これは鍋の蓋でもなければタイヤのホイールキャップでもありません、ダルは盾なのです。シリーズその3で紹介したタルワールとよくセットになって展示されていたりします。
  盾というと体の大部分か少なくとも半分くらいはカバーするものを想像してしまいますが、それは槍や矢を防ぐための盾です。このダルは刀を持った相手と接近戦をするための盾なのです。大型の盾とは違って腕に固定するのではなく、裏側にある取っ手を掴みます。アイロンを熱い面を相手に向けて構えたイメージです。

ダル

ダルの使い方は以下のように多彩です。
 ①相手の斬撃を受け止める 
 ②曲面で相手の突きを逸らす 
 ③こちらの攻撃を相手の目から隠す 
 ④ぶん殴る 
 ⑤最後に組み打ちになったら相手の体に押し付けて動きを拘束する 
①と②は当然ですが、③も重要で、ダルを使って自分の剣と腕の初動を隠せば相手にとっては準備動作なしで突然に攻撃が来ることになり避けにくくなります。またダルは自由に振り回すことができるくらい小型軽量なので、大きめのメリケンサックとして④の用途に使われます。そして甲冑を着た者同士の接近戦の常として最後に組み打ちになった場合は、ダルを突きつけておけば簡単には組み付かれませんし、相手を地面に押さえつける時には手という”点”ではなく”面”で押さえつけることができます。

  下の写真はネパールの軍事博物館にあるグルカ戦争(1814~1816年にイギリスの東インド会社がネパールに侵攻した際に起こった戦争)の様子を描いた絵です。イギリス兵のサーベルをダルで受け止めようとしています。ちなみにネパール兵が右手に持っているのは当店のラインナップで言うと白兵戦用大型ククリと同じくらいのサイズのククリのようです。19世紀初頭まではダルが実戦で使われていたことが分かります。

ダル

  しかし銃器が発達した現在では上記のような実戦で使われることはなくなってしまいました。では何に使われているのかと言いますと、意外なことに主にインテリアとして使われています。下の写真をご覧ください。武器にしては武骨さがなく、丸みを帯びた外見であるため貴族の家の壁などにまるで絵画のように掛けられていたりします。
  更に下の写真はインドの首都デリー郊外のサンスクリット博物館に飾られているダルです。もはやお洒落な壁飾りとなっています。

ダル

ダル

  そもそもダルという言葉自体が”豆”という意味であまり武器らしくありません。日本人のイメージではあまり豆のように見えないかもしれませんが、さらに下の写真にあるように実はダルの形は南アジアで一般的に食べられている種類のお豆(レンズ豆)にそっくりなのです。

ダル

  ちなみに上記のグルカ戦争で辛くも全面敗北を免れはしたが自国に不利なスガウリ条約を結ばざるを得なくなったことを境にネパール軍の装備も急速に西洋化され、軍事博物館に展示されている19世紀末(グルカ戦争から50~60年後)のネパール軍騎兵の装備(下の写真)はグルカ戦争の絵に描かれたイギリス兵とあまり変わらないものになっています。

ダル

  この辺りは幕末に薩摩藩とイギリス軍との間に起こった薩英戦争、そして長州藩とフランス・イギリス・オランダ・アメリカとの間に起こった下関戦争の教訓に学んで、開国後に西洋式の常備軍を新設した日本と重なるところがあります。
  もっとも西洋国家に敗北した後に素早く開国して工業化にシフトした日本とは違って、ネパールが本格的に”開国”するまではグルカ戦争から更に百数十年を要し、その間にすっかり世界から取り残されてしまいました。
  ですがある意味そのおかげ(?)で「時が止まったようなヒマラヤの小国」という独特な地位を確立したわけです。うーむ、どっちが良かったのかなぁ...?

とっても大好きドラえもん

2019年2月1日

  南アジアの武器・武具シリーズはちょっとお休みして、今回はネパールで知らぬものとてないほどに知名度の高い日本の文化についてお話しします。

  ランタンと呼ばれるエリアにほど近いヒマラヤ山中を歩いていた時のこと。標高2,500mにある放牧地の隣に学校がありました。ここは急峻な山の中腹に奇跡のように1km×400m程の平地が広がるというめったにお目にかかれない地形で、学校の運動場もサッカーができるほどに広々としています。
  平地というものが貴重な地域なのでこんな学校は珍しいのです。山の村では大抵の学校はグラウンドなどというものは無いか、あってもテニスコート1面分程度だったりします。
 
ドラエモン

  この奇跡の立地にある学校は1年生から8年生までの子供を教える結構大きなもので、多分周辺の村々の子がみんな集まってきているのでしょう。ヒマラヤでは徒歩2時間までなら十分通学圏内です。
  ちなみに8年生とは何ぞや?とお思いの方々に説明しますと、ネパールの学校制度は日本の6・3・3制とは違う5・3・2制(に2年を最後に足す)というものであるため小中一貫校では最上級生が8年生になるのです。

  さてこの村にあるたった一軒のロッジ(本当はもう何件かあったのですが2015年の地震で潰れてしまいました)に宿を取って学校までぶらぶら歩いていくと、ちょうど昼休みの時間で生徒たちが放牧地で遊んでいました。
  いつもの事ですが外国人は珍しいので皆集まってきます。物怖じしませんね、ネパールの子は。で、子供からおやつなど分けてもらいながら話をしていたのですが、店長が日本人と分かると質問攻めにされました。その質問というのが、なんとドラえもんについての質問なのです。

「ドラえもんの秘密道具は全部でいくつあるのか?」

「日本にはロボットが本当にいるのか?」

「ドラえもんに会ったことはあるか?」

などなど。

  藤子不二雄先生の偉大さを思い知らされました。
  そのあとはノートに秘密道具の絵を描いて当てっこして、最後はみんなでドラえもんの歌を大合唱です。店長のヘタクソな絵でも「どこでもドア」と「タケコプター」はみんな当てましたね。歌の方は子供たちが覚えているのはヒンディー(ヒンドゥー語)の歌詞でした。
   ネパールならネパール語のはずなのに何故ヒンディーか、またそもそもどうしてネパールの子供たちはドラえもんを知っているのか?これには訳があります。

  ネパールでは相当昔からドラえもんがTV放送されており、非常に人気があります。どのくらい前からかというと、当店のスタッフの子供たちがまだ本当に小さかったころから一緒にテレビを見ていた記憶がありますので少なくとも10年以上前からでしょう。
  しかしこのドラえもんはインドで日本語からインドの公用語であるヒンディーに吹き替えられたものをそのまま流しているため、子供たちはヒンディーで覚えてしまっているのです。
  このネパール版(というかインド版)のドラえもんでは、ドラえもんは「ドレーモン」と聞こえます。奴隷モン?はて??確かにのび太の奴隷みたいなもんだが…。どうもヒンディーには「らえ」という発音を「れー」と発音する傾向があるようなのです。
  またのび太は「ノビー」、ジャイアンは「ジャイー」、しずかちゃんだけは何故かそのまま「シズカ」でした。下の写真は当店のスタッフの子供たちが描いたドラえもんのいたずら書きです。
 
ドラエモン

  多分今の若い世代のネパール人でドラえもんを知らない人は少ないと思います。それほどまでに知名度があります。そこで店長は思いつきました、素晴らしいお土産を!
  どら焼きはネパール版ドラえもんでは「ドラケイク」と呼ばれてドラえもんの好物として広く認知されています。にもかかわらず当然ながらネパールには売っていないのでネパール人にとっては幻の食べ物となっているのです。日本でいえば太い骨の真ん中に円筒形の肉の塊が付いている「あの肉」に相当するでしょうか、誰もがテレビで見たことがあるのに誰も食べたことがないあこがれの食べ物です。
  昨年、実際にどら焼きをお土産に持って行ったところ、思った通り大好評でした。これからネパールに出張に行く時の定番のお土産になりそうです。
 

南アジアの武器・武具 その3

2019年1月1日
  南アジアの武器・武具シリーズ第三弾はタルワールです。恐らく「インド人の刀」として最も一般的に思い浮かべられるのがこのタルワールでしょう。肖像画で見るインドのマハラジャ(藩王)がよく腰に佩びているのがまさにこれです。

タルワール

  タルワールはカーブした刀身に十文字の鍔と中央部が膨らんだグリップと円盤状の柄頭という一度見たら忘れられない特徴的な形をしています。ちなみにタルワールという言葉は古代インドのサンスクリット語で”片刃の剣”という意味なのだそうですが、展示されているものは先端部の峰に刃がつけられていわゆる疑似刀になった一部諸刃の剣でした。本当に初期のタルワールは言葉通りの片刃だったのかもしれません。

  下の写真はネパールの国立博物館所蔵のタルワールで18世紀の物です。このタルワールは誰あろうゴルカ王朝第10代君主にしてネパール王国の初代国王になった建国の父、プリトビ・ナラヤン・シャーその人の持ち物でした。

タルワール

  鍔元から刃の先端まで獅子や龍といった動物や蓮の花など一連の精巧な象嵌が施され、まさに王家の刀剣です。これほど凝った作りのタルワールにはまずお目にかかれないでしょう。タルワールは南アジア圏では今でも儀礼用に式典などで使われることがあります。

  続いてソースン・パタです。これは現代では儀礼用としてもほとんど見かけることのなくなった刀剣です。下の写真はネパールの国立博物館所蔵のソースン・パタです。
 真ん中で交差している長剣がソースン・パタで、刃渡りは80cm強、”く”の字型の内側部分が刃になります。更に先端の20cmほどは疑似刀になっており峰部分にも刃があります。
 
ソースン・パタ

  ソースン・パタは斬撃の際に力が逃げにくい構造から”なで斬る”のではなく重さと勢いで”ぶった切る”ククリと同じタイプの刀剣だと思われます。刀身の厚みが優に1cm以上とぶ厚いことがそれを更に裏付けています、さすがは対甲冑用重刀剣です。
  もし同じ長さの日本刀だったら厚み(重ね)は鍔元近くで7~8mm、刀身の幅もソースン・パタの2/3くらいなので、このソースン・パタのトータルの重さは日本刀二本分といったところでしょう。にもかかわらずグリップの形状からこの重量を片手で扱ったことがうかがえます。

  ソースン・パタといいソースン・パタの右側にある化け物じみたククリといい、この時代の人間は現代人より腕力が遥かに強かったのでしょうか? 確かにこれで切り付けられたら甲冑を着ていても無事で済むとは思えません。しかし銃器の発達によってその甲冑も時代遅れとなり、ソースンパタもまた現役を退くことになったのです。

 

ページトップへ