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ネパールでも外出禁止令

2020年4月1日


  店長です。2月の店長日記でお知らせしましたように今年はネパール観光年です。ですがそれどころではない事態になっております。取り急ぎこの文章の執筆時点である3月31日現在におけるネパールの状況をお知らせします。

  ネパール政府の発表では、ネパール国内で確認された感染者はまだ2名です。ネパールという国が陸の孤島のような立地であることが幸いしているのかもしれません。このまま持ちこたえてくれることを切に祈ります。

  現在日本や諸外国からネパールを訪れるのは非常にハードルが高い状況です。なぜなら政府の方針で、すべての国際線のフライトが停止されて空路からは入国できなくなっているからです。
  陸路でもすべての国境が封鎖されています。ただし重要物資の多くを地続きであるインドに頼っているネパールですから貨物などについては今後も国境の完全閉鎖はできないでしょう。日本と同様に「入国者は2週間の自己隔離」と言っていますがインド人に対しても本気で行うつもりなのか大いに疑問です。国境でいちいち荷物の積み替えなんてするとは思えません。
  さてそのインドでは数百人レベルの感染者が報告されていますのでこれから先のことは全然安心できません。ちなみにネパールは中国のチベットとも国境を接していますが、こちらの方はインドに比べれば貨物はともかく人の往来は非常に少ないです。

  ではすでに入国済みの旅行者なら自由にネパール国内を観光できるのかと言えば、それも難しいです。
  ネパール国内では国内線のフライトと長距離バスの運行が停止されているうえに外出禁止令が出ているので入国しても目的地までたどり着く事は困難かと思われます。同じ理由で、目的地までたどり着いた人はカトマンズまで戻ってくることが困難です。
  またネパール観光の柱の一つである登山ですが、エベレストの登山許可の発行も春のシーズン中は停止されています。エベレストだけではありません、TIMS(トレッキング許可証)の発行そのものが停止しているのでアンナプルナやランタンといった各地のトレッキングエリアに入ることさえできません。

  上記の諸々のことから今観光産業は大打撃を受けています。当店の現地スタッフのもう一つの仕事が観光業なのですが、「10月まで全く仕事がない」とのことです。彼は当店からの収入があるからまだましで、観光一本の方々は壊滅的です。
  乾季のシーズン中は非常に賑わっているはずの外国人ツーリスト街のタメル地区などは過疎化の町の商店街みたいになっていて、5年前のネパール大地震を思い起こさせます。
  これらの措置がいつまで続くのかは分かりません。当面外出禁止令は4/8まで、国際線の停止は4/15まで、エベレスト登山禁止は4/30までとなっていますが、さらに長引くかもしれませんし状況が改善されればネパール政府のことですので案外突然解除される可能性もあります。

  皆様、数か月後になるかもしれませんが、もし安全が確認されて措置が解除されました後には是非ネパール旅行をご検討ください。9月以降にまた乾季が始まって次のシーズンが到来します。ヒマラヤも文化遺産も変わらない姿で皆様を待ちくたびれていることでしょう。

野良犬

2020年3月1日


  最近の日本では野良犬をほとんど見かけなくなりました。店長が子供の頃は少ないながらもまだその辺をうろついていました。公園に行けば「もらってください」と書かれた段ボール箱に入った子犬が本当にいたものです。運よく拾われれば飼い犬に、拾われなければ野良犬になります。そんな光景も21世紀に入ってからはとんと見かけていません。

  一方、ネパールでは事情が違います。現役で野良犬がいくらでもうろついており、その生息密度は店長が子供だった頃をはるかに上回ります。多分我々の父母が子供だった頃の日本がちょうどこんな感じだったのでしょう。

  野犬が増えると色々と不都合な事が起こります。まず第一に犬は人を噛みます。猫だって場合によっては人を噛みますが人は猫より圧倒的に体が大きいので普通は猫に噛まれることに脅威を感じたりしません。しかし犬となると中型犬ですら素手の人間の戦闘力を凌駕します。まして大型犬なら大量殺人も可能です、脅威なのです。更に悪い事に犬は猫と違い群れを作ります。犬の群れはたとえ人間が銃を持っていても強敵です。
  そして更に不都合な事に犬は噛むことによって狂犬病を人に伝染させることがあるのです。ちなみに猫も狂犬病に感染しますが猫が積極的に人を噛むことはそうそうありません。

  幸い野良犬の脅威を感じることは今の日本ではほぼありません。しかしネパールでは特に旅行者にとっては依然として恐ろしい相手です。夜間や人気が無い町はずれで野犬の群れに出会った時の恐ろしさと言ったらありません。
  地元の人は暗黙の協定でもあるのか単に慣れているせいなのかあまり襲われることはないようですが、よそ者である旅行者は野犬にとって自分たちのテリトリーを犯す侵入者であって容赦ありません。また奴らが狂犬病の予防注射など打っているはずもありません。

  日本ではこのような不都合を解消するため、ちょうど我々の父母が子供だった時代に施行されたのが狂犬病予防法です。これによって野犬は捕獲され殺処分されるようになり、飼い犬の予防注射も義務化されました。そのおかげで環境省の殺処分数の統計では45年前の年間109万頭から、最近ではおおむね1/100である1万頭前後にまで激減しました。  野良犬を見かけなくなるわけです。ちなみに猫も捕獲の対象ですが上記したように人間にとってあまり脅威ではないためか熱心に捕まえている様子もなく、現在でも野良猫は普通に見かけます。

  さすがは公衆衛生が行き届いた日本ですね。でも店長も野犬に噛まれたくはありませんが、人間に管理されていない自由な動物が人間と関われないというのはちょっと寂しい気もします。下のような光景が道端で普通に見られるとなんだか同じ世界に一緒に生きている感があって安心します。いや、噛まれたくはないですけどね。

野良犬
 
 

ロマンチック・レンガ街道

2020年2月1日
今回は首都近郊の町の旧市街地のお話です。

  店長のネパールでの拠点は、首都カトマンズではなくその近郊のバクタプルという町です。理由は当店の現地スタッフの家がバクタプルにあるという事と“よい鍛冶屋がバクタプルで見つかったから”という単純なものです。
  当店を開設するにあたって、カトマンズの鍛冶工房にも試作品を作らせて腕を試したのですがどうも作りが粗く(あくまで日本人の基準での粗さです、ネパール人的には問題ない品質です)現在契約しているバクタプルの工房がやはり最高でした。

  ちなみに後から分かったのですが、この工房探しの際に次点に挙がった工房が何とアメリカの有名なククリショップであるヒマラヤン・インポートと契約のある工房でした、さすがですね。こちらの工房はネパール内戦(1996年~2006年)中にバクタプルから安全な東部に引っ越してしまったので、現在バクタプルでジャパニーズ・クォリティの刃物を打てるのは当店と契約するこの1軒だけだと思っています。
  ですが、ブレードやグリップといった主要部分はバクタプルの鍛冶工房で作っていても、それ以外のナイフの装飾(象嵌細工や水牛革)などはカトマンズの各種工房に作らせているので、店長はカトマンズとバクタプルの間を行き来する機会が多いのです。近郊とはいえ歩ける距離ではないため、スタッフの車に相乗りできなかったときは公共交通機関を使います。

  交通機関としては昔は電動のトローリーバスが走っていたのですがいつのまにかなくなってしまいました。タクシーはバスに比べて劇的に料金が高いくせに劇的に早く到着するわけでもないのでコスパが悪すぎます。よって交通機関はバス一択となります。

  バクタプルとカトマンズの間を結ぶバス路線は大きく分けて2つのルートがあります。新道ルートと旧道ルートです。新道ルートは10年ほど年前に日本の協力で全面開通したばかりの幹線道路を行くルートで、よく整備されて道幅も広く街灯も途切れなく立っていて平坦な良い道路です。
  この道ができる前も同じ場所にちゃんと道路はありました。ですが整備状態が悪くて渋滞もひどく、道端の白く塗った大木がガードレール替わりという有様でした。それが今では上記の通りで、さすがは日本の協力でできた道路ですね。時間帯にもよりますがこのルートを行けばカトマンズ中心部からバクタプルの新市街まで50分といったところです。

  一方旧道ルートは上記のルートができるはるか昔に二つの都市を結んでいたルートだと思われます。なぜならこの道はカトマンズ周辺の中小の町の旧市街を縫うように通ってバクタプルの旧市街に到着するルートだからです。
  つまり今の旧市街は昔々町が繁栄していた当時の中心街であったはずで、カトマンズ盆地にネワール族が都市を作り、カトマンズ、パタン、そしてバクタプルその他中小の周辺都市が栄えたのが16世紀前後ですので、旧道はその当時の主要道路であったことが容易に想像できるからです。

  こちらのルートだとカトマンズ中心部からバクタプルまで1時間以上かかります。丘陵地を通るために若干のアップダウンがあり、道幅も狭くてあまり整備されていません。またどういう訳か途中の道端でバスが止まったまま20分ほど動かない事もあり、そんな時はさらに時間がかかります。ですが、それでも店長はこっちのルートが好きなのです。

  味気ないコンクリート製の新市街や郊外型の大型店舗を見ながら走るより、味わい深いレンガ造りのネワール様式で建てられた旧市街や昔ながらの市場を見ながら走る方がいいに決まっています。なかでもカトマンズとバクタプルのちょうど中間地点にあるティミという町は伝統的な家屋がよく残っており古都の趣があります。
  ティミは丘の斜面に沿って作られた町で斜面の下側が新道に面した新市街、上側が旧道に面した旧市街という立地です。この高所に市街があるという構造はネワール族の町の多くに共通した特徴で、バクタプルやキルティプル、タンコットなどの近郊の町も同様の立地です。

  店長の勝手な想像ですが、この立地の理由は町の防衛にあったのではないかと思います。ネパールがまだカトマンズ盆地の小国の一つだった頃、周辺の数十の小国が虎視眈々とこの地を狙っていたのです(この当時の戦闘の様子はカトマンズの西側にある軍事博物館で見ることができるのでネパール史に興味がある方は必見です)。
  ですから街を作るなら平地よりも攻めるに易く守るに堅い高所を選ぶのは当然の理なのです。

  木や竹や紙で作られた日本家屋と違ってレンガ造りのネワール建築は上記の戦火にも耐えて、ティミの旧市街を非常に魅力的なものにしています。下の写真をご覧ください。

ティミ

  これは旧道から少し丘を下ったところにある寺院です。小さなお堂ですが周りにはいつも地元の人たちがたむろして良い雰囲気です。境内がないただのお堂ですので他の大きな寺院のように「靴を脱げ」などと言われる事も無く中を覗くことができます。

ティミ

ティミ

  中にはイカした壁画やおそらくバイラブと思われる神様が鎮座しておりました。ちんまりして可愛い感じもしますが、バイラブはヒンドゥーの破壊神ですのでくれぐれも不敬の無いようにご注意ください。
  隣に建っているレンガのネワール建築もなかなか良い感じです。旧市街は建物はもちろん、地面まで全面レンガ敷きですので新市街のアスファルト路面とは味わいが違います。

ティミ

ティミ

  よく見ると道端に何やら同じ形の物がたくさん置いてあります、何でしょう? 下の写真のような妙な機械もあります。
  道端に並べられていたのは乾燥中の焼き物で、妙な機械は粘土を練る機械です。ティミは焼き物の町としても有名なのです。

ティミ 
ティミ

ティミ

  奇妙なことに街中でこれほど大規模に焼き物が作られている割には焼き物を販売するお店があまり見当たりません。これは港町に魚屋がないのと同じ理由なのかもしれません。
  港町に魚屋がないのは地元の住人にとっては「魚は買うものではなくその辺にいくらでも転がっているものであり、知り合いから入手するもの」であるためですが、ティミの住民にとって焼き物は「その辺で幾らでも分けてもらえるもの」なのでしょう。

  同じく焼き物の町でもバクタプルのようにそこそこ観光客が来れば事情が違います。ちゃんと焼き物のお店が並んでいます。
  しかしティミは観光客を見かけることもほとんどないような町なので致し方ないところです。シーズンにもよりますが2時間歩いて一人の外国人も発見できずじまいということも珍しくありません。もっとも店長にはネパール人とインド人の区別がつかないので案外インド人は訪れているのかもしれません。
  まあ、カトマンズのように騒がしくもなく埃っぽくもなく、観光地化されていない本当の伝統的な街並みを堪能できるので、お好きな方にはそこがティミの魅力だともいえます。店長はお好きな方に含まれているため時々用もないのにティミで途中下車してしまうのです。

  2020年はネパール観光年“VISIT NEPAL 2020”と銘打ってネパール政府が観光に力を入れていますので、旧道の観光地化されていない伝統的な街並みを「ロマンチック・レンガ街道」などと名付けて売り出す作戦も大いにアリかと思われます。
  2020年にネパール旅行される方は「ロマンチック・レンガ街道」の御訪問を是非ご検討ください。
 

ヒマラヤの磐座(いわくら)

2020年1月1日
  以前の店長日記でも紹介したことがありますが、ネパールでは自然にできた大きな岩石や洞窟などが神様または神様の宿る場所(依り代)として信仰される事があります。

  日本の神道でも磐座(いわくら)といって昔から巨石が信仰されておりますし、神社などにはしめ縄が張られた大きな石があったりしますので、同じような心情なのだろうと思います。
  なにしろネパールのヒンドゥー教も日本の神道も万単位の神様が存在する多神教の宗教ですので、その辺のちょっとした岩石にだって神様が宿っていて不思議ではありません。

  ただし、いくらネパールの神様の数が多いとはいえ岩が依り代になるためにはそれなりの条件があるようです。店長の勝手な印象ですが、
①大きい事 
②他とは違う特別な色や形をしている事 
③何らかのストーリーがある事
などが条件ではないかと思います。

磐座

磐座

  上の写真は前述の店長日記で紹介したバグバイラブです。バグバイラブは、①大きな岩である ②形がトラのよう ③-1周辺の土地に本当にトラが出る ③-2トラはバイラブ神にゆかりのある動物である、ということから見事にすべての条件を満たしています。
 
  ヘランブーと言われる地方のヒマラヤ山中を歩いていてこんな巨石に出会いました。しめ縄のようなものが巻いてあるところまで日本の磐座そっくりです。下の写真をご覧ください。

磐座

  これは条件①は満たしていますし、表面に変な模様が浮き出ているので②もクリアしています。ただ残念なことに周囲に誰もいなかったため、③については分からずじまいでした。いったいどの神様が祀られていたのか?何となく猿の顔っぽいので猿神ハヌマーンかもしれません。

  下の写真はエベレスト山域にあるラムジュラという3500m級の峠を越えた先にある小さな祠の巨石です。ちょっと分かりづらいかもしれませんが家くらいの巨石の上に小さなお堂が乗っています。おそらく巨石が先に祀られるようになって、そのあとで祠が作られたのでしょう。

磐座

  十分に大きいので条件①はクリアです。②③についてはこれも付近に人気がなかったので分かりませんでした。なにやら文字が彫られていたので店長がチベット文字を読めたらもう少し何か分かったのかもしれません。
 
 下の写真はヘランブーにあるメラムチガオンという村の高台にあるの岩窟寺院です。

磐座

  これは奥の岩の下が洞窟になっている岩窟寺院です。この辺りは数年前のネパール大地震で相当に揺れてほとんどの家屋が倒壊した地域ですが、岩窟寺院だけはビクともしませんでした。こうした神秘性も今後条件③のストーリーに加わっていくのでしょう。

  ちなみに店長の出身地北海道の神社は明治の開拓期に建立されたものが多いので、境内にある巨石には天地開闢や国造りに絡んだストーリーがある可能性が高いと思われます。
  日本でもネパールでも、珍しい形や色の大岩があればそこから何らかの力を感じてしまうのが人間の心というものなのでしょう。
 

酒のつまみ

2019年12月1日

  ネパールでは家の中でも外でもよく酒を飲みます。隣国の同じヒンドゥー教国のインドでは飲酒は不謹慎なこととみなされている(だが禁止ではない)らしく売っている店を探すことも難しかったりするのとは対照的です。

  酒を飲むという事はつまみが欠かせません、これは鉄則です。ネパール人はお酒が好きなのでネパールはつまみも豊富です。いい国ですね。店長もお酒が好きなのでネパールへ出張の度に日本から大量のおつまみを持って行きます。もちろん自分用ではなくお土産としてです。
  日本から持って行ったつまみで何がネパール人に人気があるかと言いますと、意外なことにそれはシーフードです。

  なぜシーフードが意外なのかといいますと、ネパールはヒマラヤの小国なので海なんてどこにも無いからです。一番近い海岸線は国境を越えて優に400キロは先ありますので、生の海産物など目にしたこともない人が大半でしょう。
  また店長が知る限りネパールに水族館はなく、外国のアニメに登場するタコやイカやウニは子供にとって正体不明の怪生物です。
  そういう訳でほぼ全員がまともなシーフードなど食べたことがないのです。にもかかわらずシーフードを食べさせてみると皆美味しいというのです。これはつまり食習慣や経験にかかわらず人類にとって普遍的にシーフードが酒のつまみに適していることを意味しているのではないでしょうか。
  では日本のつまみを人気順に挙げていきましょう。

1位 裂きイカ・・・これが嫌いなネパール人にはまだ会ったことがありません。また、これの正体がイカだと見破れるネパール人にも会ったことがありません、当然ですね。
  一度裂いていないイカの姿そのもののロールイカを持っていったらあまりの不気味さ(ネパール人にとって)に非常に嫌な顔をされたので、もうしません。そりゃ生まれて初めて見たら気持ち悪いですよね。まあそれでも食べていましたのでよほど好きなのでしょう。

つまみ

2位 サンマのかば焼き・・・そう、あのぱっかんと開ける缶詰です。タレまですべて舐め尽くすくらい好まれます。こっちの方は正体を明かしても嫌な顔はされませんでした。
  砂漠を持たない日本に住む我々が地平線まで続く広大な砂丘にロマンを感じるように、ネパール人はどこまでも続く大海原に対して漠然とした憧れがあるらしく、サンマが太平洋を回遊する魚で日本の秋の味覚だと説明したら感慨深そうでした。

つまみ

3位 焼きタラ・・・これが一般名称かどうか分かりませんが、あの白くて紙みたいな、何と言うか魚の練り物を薄く延ばして焼いてシート状にしてから細切りにしたようなアレです。細切りにしていないものはパッと見はネパールのスナックであるパパドに似ていますので、騙して食わせたらそれ以来皆さんに気に入ってもらえました。

つまみ

  その他、いか天やスルメそうめんなどのイカ系のおつまみもなかなかの人気です。ちなみにナッツ系はむしろネパールの方が日本より充実しているので受けません。わずかにジャイアントコーンは大きさが珍しかったためかちょっと受けました。
  シーフードと言えば最近はカトマンズで寿司を食べるネパール人も増えてきつつあるようですが、一般的には生魚は口に入れることすら拒絶されることが多いので、やはり乾きモノがよろしいようです。

つまみ

  最後にシーフードなのかどうか微妙なものを一つ、タコ焼きです。タコ焼きもここ数年で見かけるようになりました。下の写真は店長が拠点を置く古都バクタプルのショッピングモールの前にオープンした屋台です。どこまで日本の味に迫っているのかを試すべく買ってみました。

つまみ

  驚くべき事に味は日本のタコ焼きそのもので、マヨとソースがかかってタコもちゃんと入っていました。凄い再現度です。
  焼いてる本人に聞いてみたところ「ウチの姉ちゃんが日本でタコ焼きの勉強して帰ってきて、それで兄妹全員でやってるんだ」とのこと。6個入りで200ルピー(約200円)はちょっと高いと思いますが、まあ日本で食べるケバブなんかも現地に比べれば結構なお値段ですのでそんなものなのでしょう。
  これをお読みの皆さん、店長はナイフで手一杯なのでやりませんが、今ならシーフードの処女地ネパールにシーフードチェーンを立ち上げてシーフード王になることも夢ではないと思われます。まずはおつまみの販売から挑戦してみてはいかがでしょうか? まあ物価差を考えると儲けは期待できませんが.....。

救国の王妃ラクシュミ

2019年11月1日

  ネパールの首都カトマンズの西側にある軍事博物館には乱世を勝ち抜き今日のネパール国を築いていった軍人の肖像画や写真が略歴とともに展示されているコーナーがあります。そこには将軍や王族といったいかつい男性達に交じってたった1枚ひときわ異彩を放つ女性の肖像画があります。ラジェンドラ・ラクシュミ・シン・シャハ、すなわち第二代ネパール国王の妃です。

  現代ならいざ知らず時代は18世紀です。男尊女卑が当然の価値観であったはずのこの時代において、女性が、しかも王妃が軍人たちの列に加えられているのは極めて異例なことなのです。

ラクシュミ
                          歴代の軍人コーナー

ラクシュミ
                ラクシュミ王妃

  この異例中の異例が必然として成立した理由はその時代背景にあります。ラクシュミが第二代ネパール国王に嫁いだ頃は日本で言えば戦国時代の真っ最中であり、ネパール国そのものがまだ建国から数年しかたっていない弱小国家だったのです。
  状況は織田信長がまだ子供だった頃の尾張の一豪族に過ぎなかった織田家に類似しています。しかし織田家と決定的に違うのはラクシュミの夫である第二代ネパール国王が僅か26歳で死亡してしまった事です。織田家で言えば桶狭間の戦いの直前(信長26歳)に信長が死亡したも同然の大ピンチです。信長が桶狭間以前に死亡していたなら織田家が天下を手中に収めかけることは恐らくなかったでしょう。唯一家督を継げたかもしれない弟はとっくに信長自身に殺されてしまっていたからです。

  国王一族すなわちシャハ家では幸運にも国王死亡時点で家督を継げる男子即ちラクシュミの一人息子がいましたが、この時点でまだ2歳でしたので形だけ即位はしたものの何の役にも立ちません。何とかしてこの大ピンチを切り抜けなくてはネパール国に明日はないのです、どうするネパール!?
  王妃であるラクシュミが出した答えは、自分が摂政となって息子の成長を待ちつつ同時にネパール軍をも率いるという当時の社会通念上信じられないようなものでした。国の存亡にかかわるレベルの非常事態にのみ許される掟破りのミラクルな解答です。そしてなんとその解答が正解だったのです。

  結婚前の彼女の経歴ははっきりしません。というのもラクシュミはネパール出身でもその前身のグルカ出身でもなく、ネパールと敵対関係にあり王国統一の覇を競っていたパルパ国の姫だったからです。つまり彼女の結婚は敵同士であるパルパとネパールの和平を担保するための政略結婚だったわけです。当時としては別に不思議な事ではありません。
  一方で不思議な事なのはどうやら彼女が軍事訓練を受けていた形跡がある点です。この時代の女性が戦闘訓練を受けるのは非常識なことなのです。ところが記録によれば彼女は馬術に優れ、剣を使い、戦術戦略を知っていたとのことです。そうして夫の死亡直後から、軍と国民を束ねるために剣を片手に馬を駆ってネパール辺境の州を走り回っていたといいます。女性でしかもお姫様であった彼女に何故そんなことができたのでしょう?
  これは店長の勝手な想像ですが、地方領主であるパルパ王の娘であったラクシュミは、生き馬の目を抜く戦国を生き延びるためにやむなく父から軍事訓練を施されたのではないかと思っています。

  事態が急変するのはラクシュミがネパール軍の指揮を執るようになってから4年後です。急速に勢力を伸ばしつつある新興国ネパールに危機感を持った24諸国(中西部の中小国家群)が連合軍を結成し、ネパールを急襲したのです。戦国時代の日本でも織田信長の妹(お市の方)などは織田家と対立関係にあった浅井家に嫁がされ、その3年後に浅井家は信長に滅ばされていますので、政略結婚した嫁ぎ先に故郷の軍が攻め込んでくる事は当時のネパールでも珍しくはなかったのでしょう。

  前述のお市の方は浅井家が織田軍に攻め滅ぼされる際に辛くも脱出に成功しています。同様に24諸国連合軍が攻めてきた時はラクシュミはネパールからの脱出を図るのが普通なのですが、普通ではなかった彼女は信じがたい行動に出ました。
  そうです、彼女は脱出ではなく連合軍との戦いを選んだのです。24諸国の中には自分の出身地であるパルパも入っていたにもかかわらず、です。この決断には、もし自分がネパールを脱出したら既に戴冠式を済ませてしまった第三代ネパール国王である息子の命が危ない、という事情が後押ししたのではないかと店長は推測しています。
  つまりこういう事です。もし夫が生きていたら、死んでいてもせめて戴冠式前なら、子供を連れて脱出するのが最善です。父であるパルパ王なら孫を受け入れてくれるかもしれないからです。しかし既に国王である息子を国外に連れ出すのは不可能です。もうこの時点で息子の命はネパールが24諸国連合軍に勝利できるかどうかにかかっていたのです。
  そして圧倒的に劣勢な小国ネパールに勝利の可能性があるとすれば、それはネパール軍を知り尽くした自分が指揮を執ることが絶対条件です。母親ならこれは負けられませんよね?

  パルパ王にとっては誤算だったかもしれませんが、結婚前の軍事訓練と軍のトップとしての4年間の経験がラクシュミを鍛え上げ、彼女をただの “和平のために嫁がされた姫” から ”優秀なネパール軍司令官” へと変貌させていました。なんとラクシュミは圧倒的な劣勢をひっくり返してこの戦いで24諸国連合軍を撃破し、あろうことかそのうち3か国をネパールに併合することに成功したのです(意図的かどうか分かりませんがパルパはその3か国には入っていません)。
  これは凄い事です、快挙です、戦国時代の日本でも政略結婚させられた嫁が亡き夫の軍を率いて故郷の軍を撃退した例などありはしません。もし彼女がいなければ今日ネパールがある場所には全く別の国があったかもしれないのです。まさに救国の王妃なのです。
  下の写真は国立博物館に展示されているネパールの領土の変遷です。この年しっかり3か国(赤色部分)が併合されています。

ラクシュミ
                        ネパールの国土の変遷

  この戦いの4年後にラクシュミが没した時には息子は10歳になっており、母が命懸けで守ったこの子が成長して後に母親の故郷であるパルパをも攻略し、ついには数十に別れて争っていた周辺諸国を次々と攻略してネパール統一を成し遂げるのはさらに19年先の話になります。
  パルパのおじいちゃんも自分の孫が自分を打ち破ってネパール統一を果たすなんて、きっとあの世で苦笑いしてますね。

信用できない道案内看板

2019年10月1日

  今からちょっと前の2011年はネパール・ツーリズム・イアーと銘打って政府主導でネパール国内の旅行施設の充実化が図られました。観光客への宣伝活動だけではなくホテルや道路の整備もなされ、ヒマラヤの山奥にすら道案内の看板が立ちました。
  これでトレッキングも安全で便利になってくれればよかったのですが、そうはならないのがネパールです。なぜなら看板の中には非常に残念でいい加減なものが多く見受けられるからです。中には旅人を迷子にしてしまうような危険な看板すらあるので要注意です。

看板

  例を挙げて説明しましょう。上の写真はジリというエベレスト方面のトレッキングの玄関口にあたる街から1キロほど山道を歩いた場所にあった看板です。
  中心の丸印が現在地点で、そこから5方向に矢印が出ているという分かりやすい表示ではあるのですが、問題はこの看板が五叉路などではなく一本道のわきの立木に打ち付けられているという点にあります。
  一本道なので左右方向の矢印は分かります、しかし他の矢印は何なのでしょう?周辺を歩き回った結果、上方向の矢印は地元の人が通る獣道で、斜め右上の矢印はここから少し歩いたところに石畳の分かれ道が見つかりました。下向きの矢印はついに当てはまる道が発見できず分からずじまいでした。
  おそらく道を熟知している地元の人たちにとっては説明の必要もない正しい看板なのでしょう。上の矢印だけカッコ書きになっているのは獣道である事を表しているのかもしれませんし、もう少し捜索範囲を広げれば下向きの矢印も見つかったのかもしれません。しかし地元の人ではなくトレッキングに訪れたツーリストに分からなければ意味が無いではありませんか。

  結局店長は上向きの獣道を選んで歩き始めましたが、15分でT字路に突き当たって途方にくれました。T字路のほぼ正面にある家の人に左右どちらに行けばいいのかを聞くと、右でも左でもなくそのまま直進して家の横を突っ切って行けという意外な回答が返ってきました。どうやらこの家の人が普段使っているショートカットを親切に教えてくれたようです。
  ショートカットの道は細い上に分岐が多くて非常に迷いやすいので避けたいのですが、右と左のどちらが正解かわからない以上このショートカットに賭けるしかありませんでした。
  その後に続く苦労話はひとまず置いておくとして、店長が強調したいのは道案内の看板が全然役に立っていないという事です。

  続いて下の看板をご覧ください。ヘランブーと呼ばれるエリアにあった看板です。

看板

  この地域の村々とそこに至る道路が網羅された分かりやすい地域全体図だなどと勘違いしてはいけません。この地図にはいくつか致命的な欠点があります。

1.現在地がない
  普通看板がある場所(自分がいる場所)が赤丸で示されていたりするものですが、この看板にはそれがありません。目的地の村までの道が分かっても自分がどこにいるのかわからないのではどっちに歩き出せばいいのか判断できません。

2.方角が分からない
  普通地図は北が上になっていますよね? でもこの地図はおそらくこの周辺に住む村人が頭の中に持っている概念図を絵にしたものであって、方向の情報が極めていい加減です。つまり地図のある場所では北が上だが別の場所では左だったり下だったりします。よって方位磁石を持っていてもこの地図をあてにはできません。

3.道路が実際の道路の一部しか描かれていない
  実際に歩いてみると道路はこんなに単純ではなく、ここに描かれていない分かれ道が多くあります。しかも描かれていない道の方が太かったりします。なので「地図では次の分かれ道を右に行けば目的の村に着く」と信じていると、地図にない道を右に曲がってしまいとんでもない所に着いたりします。

  まさにトレッキング客を迷わせるために作られたような恐ろしい看板です。しかし更に恐ろしことに、これにはまだ続きがあるのです。下の看板をご覧ください。

看板

  上の看板はチリ(CHIRI)村にあった看板です。下側の矢印はまあいいでしょう、隣村の名前は確かにタレパティ(THAREPATI)で、更に5~6時間歩けばメラムチギャン(MALAMCHIGHYANG)に着くからです。ですが問題は上の矢印です。看板ではチリの隣村がガンギュル(GANGYUL)で、タルケギャン(TARKEGHYANG)まで5分と表示されています。
  実際に歩いてみるとこれは大嘘でした。隣村の名前は合っていますがタルケギャンまでは優に1時間は歩きます。さらに二つ上の写真の緑の大きい看板の中のチリ村やタルケギャンの位置関係と明らかに矛盾しています。
  つまり地域全体を表示した緑の看板そのものがいい加減である上に道の途上にある個々の看板が互いに矛盾しているのです。こんな看板を信じて歩き出したら夏場はまだしも冬場は本当にシャレになりません、遭難の可能性が十分あります。

  ネパール・ツーリズム・イアーから8年が経過し、ヒマラヤ山中には更に多くの新しい道が作られています。しかし相変わらず看板は古いままで、これらの看板の危険度は更に増しています。政府の指示で作られたので勝手に撤去もできず、地元の人たちにとってはそもそも不要なものなので放置されるのは当然なのです。
  更新できないならこれ以上の被害が出ないうちに早く撤去の指示をして欲しいものですが、しないでしょうねぇ...。

  もしこれを読んでいる皆さんがヒマラヤトレッキングをすることになったら、事前に信用できる地図を購入した上でGPSを活用し、看板はあくまで参考にとどめてください。信用するとエライことになります。

南アジアの武器・武具 その7

2019年9月1日

  南アジアの武器・武具シリーズ第七弾はシン・タパのククリです。
  アマル・シン・タパはグルカ戦争(1814-1816)のネパール軍の将軍にして国民的英雄です。彼の勇猛さは虎にも例えられ、カトマンズにある軍事博物館にはその雄姿が展示されています。

シン・タパ

  グルカ戦争とはザックリ言うとイギリスとネパールの間の戦争です。当時、インドを征服して植民地化したイギリスは世界最強ともいわれる陸軍を持っていました。まさに大英帝国の全盛期ですね。対するネパールは人数も兵の練度も装備もイギリス軍よりはるかに貧弱です。なにしろネパール側の主要装備は(銃もある事はありましたが)弓矢とククリなのですから。
  インドとネパールはお隣同士の国なのでネパールは非常に危険な立場にあったわけです。イギリスとのイザコザは可能な限り避けたいところです。
  そんな時にイギリス支配下のインドとネパールとの間に国境紛争が起ってしまいました。当然、優秀かつ冷静な軍人であったシン・タパは開戦に反対しました。しかし主流派は状況が分かっていません ”ネパールはヒンドゥーの神々に守られた国なので負けるわけがない” などと真珠湾攻撃前の日本みたいなことを主張してついに戦争に突入してしまいました。

  誠に信じがたいことに、最初の会戦では11門の野戦砲をはじめとする当時最新の装備とネパール軍の5倍の人数を誇るイギリス軍に対しネパール側が勝利してしまいました。
  これは実に異例なことです。なぜならランチェスターの法則によれば機動部隊の戦力比は装備や練度が同じならその人数の二乗に比例することが分かっているからです。この場合の人数比は5倍ですから戦力比は実に25倍だったはずです。いや、装備や練度もイギリス軍が上でしたから実質戦力比は30~40倍はあったはずで、どう考えても勝てるはずがなかったのです。
  これはヒンドゥーの神々が味方したわけではなく、何よりグルカ兵が鬼のように白兵戦に強かったことが主原因でしょう。以前の店長日記でも紹介しましたように、こと白兵戦に関してはグルカ兵は単身で40人の盗賊団を壊滅させる力を持っているのですから、40倍の戦力比をひっくり返しても不思議ではありません。
  それに加えて慣れないジャングル戦でイギリス軍が装備を活かせなかった事も原因でしょう。
  ネパール側はここで講和しておけばよかったのです。しかし初戦の勝利に調子に乗って戦争が長引き、ジャングル戦にも慣れ装備と人数で圧倒的に勝るイギリス軍に対してズルズルと負け戦が続いた挙句、1年と4か月後に講和と引き換えにネパールにとって非常に不利なスガウリ条約を結ばざるを得なくなりました。

  この戦争でネパールは国土の多くを失いましたが辛くも植民地化は免れ、同時にグルカ兵の尋常ではない強さがイギリスに知れ渡り、のちにイギリス軍にグルカ旅団ができるきっかけとなりました。
  ちなみに日頃から大国インドの経済的影響をモロに受けて少なからずモヤモヤしたものが心に溜まっている現代のネパール人にとって ”インドはイギリスに征服されて植民地になったが、ネパールは装備と人数に押し切られたもののよく戦って植民地化を免れ独立を守った”という事実は大きな誇りでなのです。

  さてシン・タパに話を戻しましょう。当時彼が愛用していたククリは独特の物でした。通常ククリのブレードは”く”の字型に湾曲していますが、シン・タパのククリは曲がりが異常に大きくまるでブーメランのようです。下の写真をご覧ください。

シン・タパ

  左側が当店で販売している白兵戦用大型モデル、真ん中が同じく当店で販売している山岳系のククリであるメラムチ、そして右側がネパール国立博物館所蔵のシン・タパのククリです。当店のククリのブレードの湾曲は10~15度ほどであることに対してシン・タパのククリは30~40度ほども曲がっています。

  店長はネパール各地のククリを目にしていますが、ここまで極端に湾曲したククリが使われている所は見たことがありません。とはいえ店長が知らないだけでシン・タパの出身地である西ネパールの様式なのかもしれませんので断言はできませんが、このタイプのククリはシン・タパ以前は存在しなかったのではないかと思います。つまりこの大きな曲がり具合は伝統的なものでも地域的なものでもなく純粋に彼の趣味で作らせたものだということです。日本でも趣味(?)で変な槍や刀や兜を作らせた武将がいますよね。
  シン・タパが国民的な英雄になってからはこの湾曲が大きなククリはアマル・シン・タパ・ククリとかシン・タパ モデルなどと呼ばれて有名になりました。彼にあやかって今でも少しは作られているようです。しかし、やはり使いづらかったのかここまで湾曲が大きいククリはその後定着することはなかったようです。

  伝説によれば、事実上の敗戦後シン・タパは軍を引責辞任して寺院に身を寄せ、最後はヒマラヤ奥地の聖地ゴサイングンド(標高4,380mにある神秘の湖、下の写真)を目指したが途中で息を引き取った、という事になっています。

シン・タパ

シン・タパ

ハレの日の御馳走

2019年8月1日

  かなり前の店長日記でネパールの食事のスタンダードはダルバートであると書いたと思います。ダルバートはご飯に野菜料理と豆のスープがセットになった物の事で、日本で言うなら白飯+みそ汁+鮭の塩焼的な代表的な食事メニューです。このご飯+野菜+豆スープは最低限のセットであって、これにアチャールと呼ばれる漬物のような物が付いたりもします。こうした質素なダルバートが下の写真です。

御馳走

  これが普通の御家庭で毎日朝夕食べられている典型例だと思ってください。この写真では野菜料理はほうれん草の炒め物と生キュウリです。左側の小皿がアチャールで、本当に日本の漬物のように色々な種類があり、各家庭でバリエーションが豊富ですが大抵は非常に辛いです。ひょっとして日本のカレーの福神漬のルーツはこれなのでは?と店長は思っています。

  さて次は豪華版ダルバートを紹介します。御覧下さいこの品数の多さを!ご飯と豆スープの他に野菜が4品、肉料理が3品、アチャールが2種類+生野菜、更にヨーグルトとパパドと呼ばれる薄焼きせんべいのような物まで付いています。

御馳走

  しかしこれは観光客向けのレストランで出されるダルバートであって、ネパールの人達の御家庭ではまず食べられることはありません。値段も通常のサラリーマンの日給に相当するくらいの額ですので食べるのはやはり外国人観光客くらいのものです。

  ところが、一般ネパール人がこのダルバートをはるかに上まわる御馳走を食べる時があるのです。それはズバリ伝統的なイベントがある日です。結婚式や特別な年になったら行う宗教行事の時には10品20品あたりまえの超豪華な食事が振舞われます。
  下の写真などがその例で、テーブルの上には数mに渡って料理が並んでいます。女性の服が金の刺繍入りの高級サリーである事からも何らかの伝統行事であることがわかります。

御馳走

御馳走

  国連から世界最貧国の指定を受けているネパールでは、食事も平均すると日本よりかなり質素だと言わざるをえません。しかしネパールでは普段の何でもない日とハレの日との差が激しいのです。ハレの日の御馳走は普段の食事からは考えられないほど豪華で、大人も子供も何日も前からそれを楽しみにしています。

  我々の祖父母の時代には同様に正月の餅つきが待ち遠しかったり、年に一度の祭りの特別な料理が楽しみだったりしたと聞きます。しかし最近の日本の食事は中途半端に豪華になったせいか、「特別な御馳走を楽しみに待つ」事が少なくなった気がします。
  食事に限らず、生活のメリハリの点ではネパールの方が現代の日本より楽しみ方がうまいと感じます。

南アジアの武器・武具 その6

2019年7月1日

  南アジアの武器・武具シリーズ第六弾はクファンジャル・ダガーです。
  クファンジャルは曲がった刃を持つ諸刃のナイフです。元々は中東のオマーンが発祥の地だったらしいですが、そこからペルシャを経由して東方へ広がりインド・ネパールといった南アジアでも使われるようになりました。
  下の写真はネパールの国立博物館所蔵のクファンジャルです。伝搬の過程で初めは刃がJ字型だったものがややまっすぐになったようですが、この写真のクファンジャルは特にまっすぐなタイプです。グリップはおそらく象牙製で獅子の頭が彫り込まれています。写真では分りづらいですがグリップはややすり減っており刃には使用痕がありますのでこれは実用品と思われます。

クファンジャル

  店長はインドのデリーの国立博物館でクファンジャルを実際に手に取ってみる機会がありました。下の写真がその時の物で、手と較べると大きさがよくわかります。刃渡り僅か13cm、ブレードの中央部にカリグラフィーが描かれています。刃の曲がり具合は南アジアのクファンジャルとしてはごく一般的なものです。

クファンジャル

  更に下の写真のように、グリップと鞘は金属の美しい透かし彫りになっており柄頭は山羊の頭になっているなど非常に手が込んでいるところを見ると、どうやら実用品ではなく儀礼用または美術品としてのクファンジャルのようです。

クファンジャル

  ちなみにインド海軍のミサイルコルベット艦に”クファンジャル”という名前の艦があります。この艦の記章(船を識別するマーク)はもちろんクファンジャルです。下図がその記章です。

クファンジャル

  クファンジャルと出自が似たナイフにペシュ・カブズがあります。ペシュ・カブズはもともとは中東のペルシャ周辺で発祥したナイフでしたが時代を経てパキスタン、アフガニスタン、インドやネパールといった南アジアにまで伝わりました。
  下の写真はネパールの国立博物館所蔵のペシュ・カブズです。パッと見は出刃包丁のようなナイフで、刃は上側の写真のように若干反っているものと下側の写真のように直線的なものがあります。またペシュ・カブズはフルタングで峰が異常に分厚く、先端が針のように鋭利なのが特徴です。なぜならこのナイフは地面に押さえつけた相手の甲冑や鎖帷子のわずかな隙間に針のような先端をねじ込んでそのまま全体重をかけて貫通させるためのナイフだからです。恐ろしいですね。

ペシュカブズ

  この種の伝統的なナイフは銃器が発達して甲冑が時代遅れになるにつれて廃れていくものです。クファンジャルがそのよい例で、発祥の地であるオマーンではすでに儀礼用でしか使われなくなっています。
  ペシュ・カブズもその例に漏れず一時期はほとんど使われることがなくなりました。しかし20世紀末に勃発したアフガニスタン紛争でその実用性が見直され、敵にとどめを刺す際に使われたり護身用に持ち歩かれるようになって再び現役復帰した珍しいナイフです。
  どちらも中東起源で大きさやデザインも似ているにもかかわらず地域の事情によりその運命は違ったものになりました。ひょっとしたらこのシリーズで取り上げられた他の伝統的なナイフ達も戦争や動乱がきっかけでまた息を吹き返す事があるのかもしれません。
  店長は戦争は大嫌いですが個人的にはチャクラムやブンディ・ダガーが活躍する世界を見てみたい気がします。

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