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バネ鋼

南アジアの武器・武具 その7

2019年9月1日
  南アジアの武器・武具シリーズ第七弾はシン・タパのククリです。
  アマル・シン・タパはグルカ戦争(1814-1816)のネパール軍の将軍にして国民的英雄です。彼の勇猛さは虎にも例えられ、カトマンズにある軍事博物館にはその雄姿が展示されています。

シン・タパ

  グルカ戦争とはザックリ言うとイギリスとネパールの間の戦争です。当時、インドを征服して植民地化したイギリスは世界最強ともいわれる陸軍を持っていました。まさに大英帝国の全盛期ですね。対するネパールは人数も兵の練度も装備もイギリス軍よりはるかに貧弱です。なにしろネパール側の主要装備は(銃もある事はありましたが)弓矢とククリなのですから。
  インドとネパールはお隣同士の国なのでネパールは非常に危険な立場にあったわけです。イギリスとのイザコザは可能な限り避けたいところです。
  そんな時にイギリス支配下のインドとネパールとの間に国境紛争が起ってしまいました。当然、優秀かつ冷静な軍人であったシン・タパは開戦に反対しました。しかし主流派は状況が分かっていません ”ネパールはヒンドゥーの神々に守られた国なので負けるわけがない” などと真珠湾攻撃前の日本みたいなことを主張してついに戦争に突入してしまいました。

  誠に信じがたいことに、最初の会戦では11門の野戦砲をはじめとする当時最新の装備とネパール軍の5倍の人数を誇るイギリス軍に対しネパール側が勝利してしまいました。
  これは実に異例なことです。なぜならランチェスターの法則によれば機動部隊の戦力比は装備や練度が同じならその人数の二乗に比例することが分かっているからです。この場合の人数比は5倍ですから戦力比は実に25倍だったはずです。いや、装備や練度もイギリス軍が上でしたから実質戦力比は30~40倍はあったはずで、どう考えても勝てるはずがなかったのです。
  これはヒンドゥーの神々が味方したわけではなく、何よりグルカ兵が鬼のように白兵戦に強かったことが主原因でしょう。以前の店長日記でも紹介しましたように、こと白兵戦に関してはグルカ兵は単身で40人の盗賊団を壊滅させる力を持っているのですから、40倍の戦力比をひっくり返しても不思議ではありません。
  それに加えて慣れないジャングル戦でイギリス軍が装備を活かせなかった事も原因でしょう。
  ネパール側はここで講和しておけばよかったのです。しかし初戦の勝利に調子に乗って戦争が長引き、ジャングル戦にも慣れ装備と人数で圧倒的に勝るイギリス軍に対してズルズルと負け戦が続いた挙句、1年と4か月後に講和と引き換えにネパールにとって非常に不利なスガウリ条約を結ばざるを得なくなりました。

  この戦争でネパールは国土の多くを失いましたが辛くも植民地化は免れ、同時にグルカ兵の尋常ではない強さがイギリスに知れ渡り、のちにイギリス軍にグルカ旅団ができるきっかけとなりました。
  ちなみに日頃から大国インドの経済的影響をモロに受けて少なからずモヤモヤしたものが心に溜まっている現代のネパール人にとって ”インドはイギリスに征服されて植民地になったが、ネパールは装備と人数に押し切られたもののよく戦って植民地化を免れ独立を守った”という事実は大きな誇りでなのです。

  さてシン・タパに話を戻しましょう。当時彼が愛用していたククリは独特の物でした。通常ククリのブレードは”く”の字型に湾曲していますが、シン・タパのククリは曲がりが異常に大きくまるでブーメランのようです。下の写真をご覧ください。

シン・タパ

  左側が当店で販売している白兵戦用大型モデル、真ん中が同じく当店で販売している山岳系のククリであるメラムチ、そして右側がネパール国立博物館所蔵のシン・タパのククリです。当店のククリのブレードの湾曲は10~15度ほどであることに対してシン・タパのククリは30~40度ほども曲がっています。

  店長はネパール各地のククリを目にしていますが、ここまで極端に湾曲したククリが使われている所は見たことがありません。とはいえ店長が知らないだけでシン・タパの出身地である西ネパールの様式なのかもしれませんので断言はできませんが、このタイプのククリはシン・タパ以前は存在しなかったのではないかと思います。つまりこの大きな曲がり具合は伝統的なものでも地域的なものでもなく純粋に彼の趣味で作らせたものだということです。日本でも趣味(?)で変な槍や刀や兜を作らせた武将がいますよね。
  シン・タパが国民的な英雄になってからはこの湾曲が大きなククリはアマル・シン・タパ・ククリとかシン・タパ モデルなどと呼ばれて有名になりました。彼にあやかって今でも少しは作られているようです。しかし、やはり使いづらかったのかここまで湾曲が大きいククリはその後定着することはなかったようです。

  伝説によれば、事実上の敗戦後シン・タパは軍を引責辞任して寺院に身を寄せ、最後はヒマラヤ奥地の聖地ゴサイングンド(標高4,380mにある神秘の湖、下の写真)を目指したが途中で息を引き取った、という事になっています。

シン・タパ

シン・タパ

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