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救国の王妃ラクシュミ

2019年11月1日
  ネパールの首都カトマンズの西側にある軍事博物館には乱世を勝ち抜き今日のネパール国を築いていった軍人の肖像画や写真が略歴とともに展示されているコーナーがあります。そこには将軍や王族といったいかつい男性達に交じってたった1枚ひときわ異彩を放つ女性の肖像画があります。ラジェンドラ・ラクシュミ・シン・シャハ、すなわち第二代ネパール国王の妃です。

  現代ならいざ知らず時代は18世紀です。男尊女卑が当然の価値観であったはずのこの時代において、女性が、しかも王妃が軍人たちの列に加えられているのは極めて異例なことなのです。

ラクシュミ
                          歴代の軍人コーナー

ラクシュミ
                ラクシュミ王妃

  この異例中の異例が必然として成立した理由はその時代背景にあります。ラクシュミが第二代ネパール国王に嫁いだ頃は日本で言えば戦国時代の真っ最中であり、ネパール国そのものがまだ建国から数年しかたっていない弱小国家だったのです。
  状況は織田信長がまだ子供だった頃の尾張の一豪族に過ぎなかった織田家に類似しています。しかし織田家と決定的に違うのはラクシュミの夫である第二代ネパール国王が僅か26歳で死亡してしまった事です。織田家で言えば桶狭間の戦いの直前(信長26歳)に信長が死亡したも同然の大ピンチです。信長が桶狭間以前に死亡していたなら織田家が天下を手中に収めかけることは恐らくなかったでしょう。唯一家督を継げたかもしれない弟はとっくに信長自身に殺されてしまっていたからです。

  国王一族すなわちシャハ家では幸運にも国王死亡時点で家督を継げる男子即ちラクシュミの一人息子がいましたが、この時点でまだ2歳でしたので形だけ即位はしたものの何の役にも立ちません。何とかしてこの大ピンチを切り抜けなくてはネパール国に明日はないのです、どうするネパール!?
  王妃であるラクシュミが出した答えは、自分が摂政となって息子の成長を待ちつつ同時にネパール軍をも率いるという当時の社会通念上信じられないようなものでした。国の存亡にかかわるレベルの非常事態にのみ許される掟破りのミラクルな解答です。そしてなんとその解答が正解だったのです。

  結婚前の彼女の経歴ははっきりしません。というのもラクシュミはネパール出身でもその前身のグルカ出身でもなく、ネパールと敵対関係にあり王国統一の覇を競っていたパルパ国の姫だったからです。つまり彼女の結婚は敵同士であるパルパとネパールの和平を担保するための政略結婚だったわけです。当時としては別に不思議な事ではありません。
  一方で不思議な事なのはどうやら彼女が軍事訓練を受けていた形跡がある点です。この時代の女性が戦闘訓練を受けるのは非常識なことなのです。ところが記録によれば彼女は馬術に優れ、剣を使い、戦術戦略を知っていたとのことです。そうして夫の死亡直後から、軍と国民を束ねるために剣を片手に馬を駆ってネパール辺境の州を走り回っていたといいます。女性でしかもお姫様であった彼女に何故そんなことができたのでしょう?
  これは店長の勝手な想像ですが、地方領主であるパルパ王の娘であったラクシュミは、生き馬の目を抜く戦国を生き延びるためにやむなく父から軍事訓練を施されたのではないかと思っています。

  事態が急変するのはラクシュミがネパール軍の指揮を執るようになってから4年後です。急速に勢力を伸ばしつつある新興国ネパールに危機感を持った24諸国(中西部の中小国家群)が連合軍を結成し、ネパールを急襲したのです。戦国時代の日本でも織田信長の妹(お市の方)などは織田家と対立関係にあった浅井家に嫁がされ、その3年後に浅井家は信長に滅ばされていますので、政略結婚した嫁ぎ先に故郷の軍が攻め込んでくる事は当時のネパールでも珍しくはなかったのでしょう。

  前述のお市の方は浅井家が織田軍に攻め滅ぼされる際に辛くも脱出に成功しています。同様に24諸国連合軍が攻めてきた時はラクシュミはネパールからの脱出を図るのが普通なのですが、普通ではなかった彼女は信じがたい行動に出ました。
  そうです、彼女は脱出ではなく連合軍との戦いを選んだのです。24諸国の中には自分の出身地であるパルパも入っていたにもかかわらず、です。この決断には、もし自分がネパールを脱出したら既に戴冠式を済ませてしまった第三代ネパール国王である息子の命が危ない、という事情が後押ししたのではないかと店長は推測しています。
  つまりこういう事です。もし夫が生きていたら、死んでいてもせめて戴冠式前なら、子供を連れて脱出するのが最善です。父であるパルパ王なら孫を受け入れてくれるかもしれないからです。しかし既に国王である息子を国外に連れ出すのは不可能です。もうこの時点で息子の命はネパールが24諸国連合軍に勝利できるかどうかにかかっていたのです。
  そして圧倒的に劣勢な小国ネパールに勝利の可能性があるとすれば、それはネパール軍を知り尽くした自分が指揮を執ることが絶対条件です。母親ならこれは負けられませんよね?

  パルパ王にとっては誤算だったかもしれませんが、結婚前の軍事訓練と軍のトップとしての4年間の経験がラクシュミを鍛え上げ、彼女をただの “和平のために嫁がされた姫” から ”優秀なネパール軍司令官” へと変貌させていました。なんとラクシュミは圧倒的な劣勢をひっくり返してこの戦いで24諸国連合軍を撃破し、あろうことかそのうち3か国をネパールに併合することに成功したのです(意図的かどうか分かりませんがパルパはその3か国には入っていません)。
  これは凄い事です、快挙です、戦国時代の日本でも政略結婚させられた嫁が亡き夫の軍を率いて故郷の軍を撃退した例などありはしません。もし彼女がいなければ今日ネパールがある場所には全く別の国があったかもしれないのです。まさに救国の王妃なのです。
  下の写真は国立博物館に展示されているネパールの領土の変遷です。この年しっかり3か国(赤色部分)が併合されています。

ラクシュミ
                        ネパールの国土の変遷

  この戦いの4年後にラクシュミが没した時には息子は10歳になっており、母が命懸けで守ったこの子が成長して後に母親の故郷であるパルパをも攻略し、ついには数十に別れて争っていた周辺諸国を次々と攻略してネパール統一を成し遂げるのはさらに19年先の話になります。
  パルパのおじいちゃんも自分の孫が自分を打ち破ってネパール統一を果たすなんて、きっとあの世で苦笑いしてますね。

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